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またまたご無沙汰でした。なんとか復活、したいなぁ。

いやもう、この一年、怒涛でした。
フルタイムの仕事がきつい中年のおばさんです。
片道一時間半かかるのも……。この年になると、なかなか仕事がないもんですから。
とはいえ、なんとか勤続三年、どうにか続けられそうになって、少し、息抜きもできそう。
また、ぼちぼちこのブログにアップできるといいなぁ。

で、一年前と状況は変わらず。
二人の間人問題は、かなり炸裂しています。
聖徳太子がらみのネタもからみます。
プロジェクト・スメラミコトも、相変わらず生きています。

加わったのは、豊国の問題。宇佐八幡宮をどうとらえるか、ですね。
それと吉備。ここへの言及が少ないのはなぜか。
この二点は、かなり突っ込んで考えています。

訂正としては、嶋吉備皇祖母のこと。
この人は、ストレートに久米皇子の娘ではないか、と思うようになってきました。
母親が桜井弓張皇女です。
田村皇女とも呼ばれている嶋皇祖母が、この桜井弓張皇女の妹っぽいのです。(桜井とか桜井弓張とか、このへんの名前は数代にわたって錯綜しているので、「っぽい」などという表記になってしまうのですが)
これだと、叔母と姪が同居していたことになるから、一見、関係なさそうな二人の女性がずっと嶋館で同居していた意味が分かると思います。
どうして蘇我馬子の嶋館を受け継いだかは、まだ、ミッシングリンクなんですけどね。
そうなると、皇極天皇は久米皇子の孫ということになり、穴穂部間人のひ孫ということになって、二人の間人のミッシングリンクは完全に埋まるのですが、はたして……ですね。

ここは、がち、というには程遠いのですが、どうも、それらしいぞ、というのが固まってきました。
なぜ、二人の間人に血縁があることを隠さなければならなかったか、これがはっきりすると、日本書紀の筆法がより鮮明になるとは思うのですが。

あと、天皇の和風諡号についても、いろいろ突っ込んでみています。豊の問題も、ここからきています。
これは今までもいろいろと語られてきたけれど、なんだかピンとこない意見が多かったので、我が家なりに珍説を作ってみました。いずれご披露できると思います。

では、今年もよろしく。

ご無沙汰してます

新年の挨拶もできないほど、ゲームにかまけておりました。
ただいま、モンスター・ハンター3というゲームに、相方ともども、どはまりしてます。
その前に、いまさらながら就職しまして、週五日などというハードな仕事環境で、本を読んだりブログをじっくり書いたりするひまがとんとなくなりました。
今年から、週四日にしてもらったので、少しひまができるかな。
相方と、妄想だけはがんがんと進んでいるのですが、まとまったものを書くひまがなかなかとれません。
とりあえず、中国古代史から日本古代史に戻りつつあります。
が、半島の伽耶史が気になってしかたないところ。
資料がほとんどないんだもんなぁ。
「プロジェクト・スメラミコト」説は生きてます。
あとは「邪馬台国はどこでもよかった」説と、そうそう、妄想激しくなっているのは、聖徳太子にまつわることですな。書記の推古朝をじっくり読み込んでいるんですが、妄想炸裂しています。
そのあたり、ぼちぼちと、アップできるといいな。

一月遅れになりましたが、今年もこの、滅多に更新されないブログをよろしくお願いします。

丹波王国論 [問題提起]

門脇禎二氏によって提示されているこの論は、まぁ、王国というと非常に語弊はあるかもしれないけれど、丹波にひとつの大きな勢力があって、それがまとまって独立的に存在していた可能性を示唆しています。
「王」という言葉も「国」という言葉も、古代においては慎重に扱わないといけないものなので、一気に「王国」と呼んでしまうとすごく威圧感があるんですが。
私はかなり遅い時期(少なくとも飛鳥朝ぐらいまでは)まで、大和王朝の支配圏はすごい狭かったんじゃないかと思っています。
いや、そもそも、そのころの天皇位は、ちょうど自民党政権の党首のように、グループ持ち回りで継がれていたのではないかと疑ってさえいます。
これに注目しているのは、書記の中でたびたび引かれている中国の史書の一文のもとを読んで、その意味から比定するということをはじめてからですね。
一見、するりと皇位継承されているような天皇の所信表明文が、おおもとをたどると簒奪者の言葉そのままだったりね。
そうなると、血のつながりで継承されているようにみえても、その実は……ということになりそうなのですが、そのあたりはまだ想像の範囲内なので、とりあえず、おいておきます。

まぁ、そういうわけで、大和の飛鳥の地にあった天皇を中心とするグループは、「日本国」と呼ばれるほど大きな支配権はもっていなかった、せいぜい、豪族の首長の自分の権力範囲+その首長を天皇といただくいくつかの首長のグループの勢力範囲をあわせた程度ではないか、と考えているわけです。
しかも、その「天皇」という存在を選ぶ機構が働いたのは、日本列島を支配するためではなく、朝鮮半島南の加羅(伽耶)を再び奪回するためだったんじゃないか、とも思っているのです。
そのために、朝鮮半島から亡命してきた貴族と、在来の(それとてももとをたどればあちらから渡ってきたと思いますが)豪族とが、持ち回りで天皇位につき、なんとか半島勢力を盛り返そうしていた、その拠点が任那だったんじゃないかと思っているわけです。

そうなると、日本書紀の中で、あきらかに朝鮮半島からきた王族として描写されている天日槍(あめのひぼこ)ないしツヌガアラシトに、どうしても注目したくなります。
これがまた、異説がいくつもあって、わかりづらい存在なんですが。
結局、この新羅王子と自ら名乗った存在(と、日本書紀で認められている)は、丹波、但馬、そして越にかけて、自領を展開するようなのですね。
しかも時の天皇からは、播磨と淡路を提供されたのに、それを断っている。
つまり、瀬戸内海ルートではなく、日本海ルートな人なのです。
そして、但馬の女や丹波の女と婚姻関係を結んで、その後の一族を経営している。
瀬戸内海の要所である播磨や淡路を断ってまで、丹波や但馬に固執したのは、そのあたりが大変に魅力的かつ栄えていたからではないか、と推測しているわけです。
ここへ、丹波王国論が重なると、何かがみえてくるんじゃないかしら。

実は丹波については、別に考古学的観点から興味をもっていました。
というのも、この地域には女王の墓とおぼしき古墳がいくつも発見されているというのです。
そして、丹波大宮の名前の由来となる、大宮売(おおみやめ)神社というのが、とても古くて、この地域の中心だったそうなのですね。
この大宮売とは、丹波女王の呼称だったんじゃないかなぁとも思えるのです。

そして、この丹波という土地に注目するもうひとつのポイントは、当然のことながら、ここが出雲に近いということです。
土師について考える時には、野見宿禰(のみのすくね)をはずすことはできません。
というか、この人が土師の祖だとされているんですね。
そして、垂仁天皇の項で、彼は当摩蹴速(たぎまのけはや)と呼ばれる力士と戦うために呼び寄せられて、そのまま朝廷に仕えたという記事がでてきますが、この記事を囲む前後は、狭穂姫とその兄狭穂彦の反乱のいきさつと、狭穂姫が死に際して皇后に推した氷葉酢媛姉妹の入内に関する記事なんですね。
二つのつながる記事の間に挟まれた一見関係なさそうな記事いうのは、実は関係がある、というのが「春秋の筆法」でして、そうなると、この出雲の野見宿禰が、日子坐王(狭穂姫の父、この人についてはまた、別項をたてる予定です)と、丹波道主王(氷葉酢媛の父で、日子坐王の子ということになっている)がらみの、垂仁天皇の後宮にまつわる話と関係あることになります。
つまるところは、野見宿禰と丹波の関係が示唆されている、というのは、かなりの飛躍だとは自覚しているんですけどね。
もう少しこのあたりをつっこんで調べて、ミッシングリンクがないか、探してみたいなぁ、と思っているので、丹波に注目しているんですよ。

相変わらず、間人がらみ。 [問題提起]

ずっと気になってる二人の間人。
この二人を結ぶミッシングリンクがみえてきたので、吉備嶋皇祖母(きびのしまのすめみおや)という存在にも注目しています。
蘇我の嶋の宮に、もう一人の「嶋のすめみおや」と一緒にいた、皇極天皇の母であるという人。
この人は不思議と、日本書紀のなかで記述が多いわけです。
さりげなくでてくる名前は、けっして偶然書かれたものではないはず。
しかも、この人が二人の間人をつなぐ存在だとするなら、ずばり彼女は穴穂部間人と田目皇子のあいだに生まれたとされる佐富女王なのではないでしょうか。
彼女が嫁いだ相手がチヌ王なら、流れはつながるわけです。
ま、そのへんは、語られていないので、あくまで推測の範囲内であるし、正しいかどうかの決め手もないわけですけどね。
そんなふうに考える理由は、やはり、喪をつかさどった土師娑婆連猪手(はじのさばのむらじいて)でして、そもそも皇族や有力豪族でもないのに、葬送にかかわった存在として二度も書記に姿をあらわしていることが尋常ではない。
そのもう一人の殯の相手は来目皇子で、これは穴穂部間人の息子なのですね。
もちろん、土師というのは葬送を司るグループなので、これが葬送にかかわること自体は、けっして不思議なことでもなんでもないのですが。
ほかに、殯やしのびごとがらみで、名前がでてくる人物たちと、この猪手とは、政治的な重要度がまるでちがっているので、わざわざ猪手の名前が単独ででてくるのは、あまりにもおかしい気がするのですよ。
だとすると、来目の時には穴穂部間人が送り、吉備嶋皇祖母の時には皇極が送った、この猪手という存在は、送り手同士の関係を示唆するための、書記の書き手の「春秋の筆法」なんじゃないかと思うわけでした。
本当は血のつながりがあるのに、書記ではあからさまに書けないことを、なんとかばれないように示唆してるんじゃないかと。
まぁ、間人という名前であまりにもあからさまな気がするのにもかかわらず、二人の間人のあいだに血のつながりがあるように書かれていないということ、それ自体がすでに謎なわけですけど。
猪手の存在によって、わざと書かれていないのだ、と思わせるわけです。

そうなるとますます気になるのが、穴穂部間人の存在。
彼女が一時期、蘇我物部戦争の禍を避けて、丹後半島にうつっていたために、中央に戻るときに、世話になった土地に「間人」の名をあたえたところ、土地のものはそのまま「はしひと」と読むのを避けて「たいざ」と読んだ、という伝承が、丹後半島間人にはあります。
この「たいざ」とは「退座」という意味であり、つまり「座を退く」ということなのだけど、この「座」っていうのはなにで「退」とはなんなのか、というところに、ずっとひっかかっています。
素直に読んだら、「玉座から退いた」という意味ではないのかしら。
つまり、穴穂部間人は一時期、天皇だったんじゃないかしら。いわゆる、中天皇(なかつすめらみこと=天皇の空位を避けるために、次の天皇が決まるまでのあいだ、一時的に皇后またはそれに近しい女性が天皇の座につく)だったとしても、とりあえず、天皇という存在でないと「座」という言葉をわざわざ使ったりはしない気がするんですね。

そうなると、彼女がそもそも禍を避けて住んでいたという丹後半島が気になってくる……ということで、問題定期は続きます。

しばらく間があきました [雑感]

ずっと中国古代史に逃避していたんですが、そろそろまた日本書紀に戻ってきたいと思います。
もっとも、ちょっと新しく仕事をはじめて、しばらくそちらにまたかかりっきりになりそうなんですが、通勤の時にでも、ちょびちょびと日本書紀を読み返して、何か面白いこと見つけたらかいてみる、みたいな感じででも、再開できるといいかなぁと思っています。
いやー、文庫っていいなぁ。
岩波文庫で日本書紀がでてなかったら、そんなことできないわけですから。

我が家は、(というよりも私の相方が)古事記は日本書紀より「後に」できた派であります。
学界説には完全に背を向けてますね。
このへんもじっくりと語ってみたいと思うんですが、何よりもまず、日本書紀を読み込まないと、ですね。
古事記は読みやすいんですが、その「読みやすさ」というのが、ひとつの罠なんじゃないかと最近、思っています。
それから、日本書紀と古事記の万葉仮名の違いとかは、これはもうものすごく面倒な古代語学の話になってしまうのだけど、けっこう重要だと思うので、おいおい、調べていきたいと思うわけです。

でも、中国古代史に浮気をした成果はあったと思います。
やはり、日本書紀は「春秋の筆法」で書かれているなぁという感触が強くなりましたし。
そうやって日本書紀を読んでみると、筆者たちの思惑というのが、けっこう、あれこれ盛り込まれているようにも思えるわけです。
そうなるともう「妄想の記紀解体」になっちゃいますね。
というか、題名に「妄想の」を加えようかしらん。

まだまだ孔子…… [中国古代史]

いったん疑問に思うと、あらゆることが不思議に思えてくる孔子。
なんでこの人が聖人君子になっちゃったのか、大変に疑問。
彼が生前に各国の諸侯相手に披瀝した自説たるや、おおよそものの役にもたたなければ、実行しようがないというか、しがいのないシロモノ。
現実に考えてみてください。
人民相手に身を慎み、仁愛をもってのぞみ、税は軽く、自分は放蕩しないで、って言われて、ほいほい聞ける諸侯がどこにいる?
そんなことできるなら、だれも苦労しまっしぇ~んというぐらい、身を慎むなど放蕩しないだのというのは、当時の諸侯である田舎やくざの親分(みたいなもんですよ、こいつらは)には無理な算段です。
しかもだ、諸侯の側が仁愛をもってのぞんで、税負担を軽くしたとします。それで人民は喜んで諸侯の徳を称えて、よく治まるって、想像できます?
そんなことないと思う。
実際に、そんなことしたら、人民はつけあがるばかりです。
つまり、孔子のいうところは、机上の空論なのね。
そりゃぁ理想論ではありますが、そんなことを実際に過去にやって成功した事例がない(ただし、孔子はあると思っていたっぽい)のです。
それに、春秋から戦国にかけての各国の歴史を調べていても、むしろ刑罰を重くして、厳正に人民にあたったほうが、盗賊の横行がなくなり、きちんと治まったようですよ。
もともと諸侯という連中と庶民という連中は、へたすると民族が違った可能性もあるぐらいで、そうそう一筋縄で統治できる状況ではないのです。庶民の側にだって、隙あれば諸侯を出し抜いてやろうという気概がありますしね。
なんで出し抜かなきゃいけないかってーと、つまり、諸侯ってのは、田舎やくざな存在なわけだから、であります。
どう考えても、左伝読んでると、そういうふうにしかとれないのよねー。
お貴族さまって連中は、とかく自分のメンツが第一で、とれるとこからはふんだくってやろう意識が高くて、自分の姉妹だろうが伯母だろうが、へたすりゃ祖母ともできちゃうというだらしない女関係。家臣の妻なんて基本ですわな。あげく、大食鯨飲でもって、やたら肉をくらうので、「肉をくらう人は長期的な観測がたてられない」と士身分に揶揄されるぐらい、見通しがたてられなかったらしいし。
こーゆーのが上にいたら、下にいる連中は、出し抜いてやろうとしか考えないだろうと思うし、そもそも、効率的な統治とか仁愛とか、想像もできないと思いますよ。
で、他国とのメンツをかけた戦争に庶民も駆り出した日にゃぁ、怨嗟も募りますわな。あげく、自分とこの農地が戦場になったりしたら……。
そーゆーことを日常茶飯事にやっていた時代に、礼だ仁だ徳だと言われて、はいそうですかってできる諸侯がどこにいるんでしょう。

そもそも、礼楽が基本だというのなら、最終的にもっともえらいのは周の王さまなわけでして、王さまをなんとかしなさいよと思うわけですが、孔子には眼中にないようです。
実際、周王って、存在感なかったからなぁ。
でも、周公旦が作ったのは、周王をトップにするピラミッド体制のはずで、それなのに孔子の目線が向いてないというのは、不思議っちゃ不思議です。
が、よくよく考えれば、彼は、王-諸侯-卿-大夫-士の、一番下の士のそれもぎりっぎり庶と変わらないぐらいのところの出自で、最終的に大夫ってとこまでのぼれたのが大変な名誉だと考える人で、そういう意味では、諸侯とか王とかって、彼にとっては雲上人というか、実はあまり想像もできなかったんじゃないのかな。
そして、彼が諸侯にいろいろと説いて回ったという伝説はあるけれど、それが本当だったかどうかも、彼の身分を考えると、けっこうクェスチョンなのです。
論語の中で彼は、自分にひとつの邑(村ですね)を宰領させてもらったら、三年あれば立派におさめてみせるのに、と言ってます。
つまり、大夫という身分で、邑宰になるというのが、彼の望みであり、これが魯においてかなったかどうかはとにかくとして、彼の目線の中で考えられる最高の身分というのが、これだったと思います。
だから、彼が仁とか徳とかほざいている話というのも、実は周王や諸侯クラスとは全然関係ないんじゃなかろうか。そんな諸侯に上から目線でこーしなさい、なんていえた身分でもないし、実際に言ってなかったんじゃなかろうか。
そんなふうに思えるわけですよ。
ぶっちゃけ、士身分に生まれたとはいえ、妾の子であります。
礼楽を知っていると自称しながら、魯の宗廟にはいりこんで、あれは何?これは何?と聞いて回ったという逸話もあります。
上のほうのことは全然知らなかったし、だからこそ学んだんだと思いますが、もとからもっていた知識ではない。
逆に、もとからもっていた知識ではなく、後付けの知識だからこそ、それをまた、別の人(弟子ですね)に与えることも可能だったし、弟子の教育って発想にもなったんだと思う。
で、孔子が弟子を教育して何にしたかったか、というと、これがまさしく、邑宰なんですよ。大夫身分の実務官僚ですね。
だから孔子が目指していたのも、そこだったんじゃないか、という妄想でした。


ところどころに地図を貼ってます [雑感]

このso-netのブログシステムに、地図をはりつけることができるようになったので、過去記事にさかのぼって、いくつか地図をはりつけてみました。
壱岐の月読神社なんて、こうやってさがしてもなかなか見つからなくて大変でした~。いや、神武東征のあとをたどって地図をはりつけるとか、ひとつひとつやってみたいですね。面白そうだ~。
もともと地図を見るのが好きで、記紀の記事でも土地にまつわる部分はできるだけ地図を参照しながら調べていたので、実地に地図を貼っていけると、調べていたことが追体験できていい感じです。
しばらく日本史やってなかったんで(まだしばらく、中国史やらなきゃならなそう……)感覚がにぶっているんですが、まぁ、『春秋』読むのも、記紀を解体する上では重要なことですから、地道にいきましょう。
しかし当然ながらこの地図、日本だけなんですよね。中国の地図がはりつけられたら、ほんとーに便利なんだけどなー。


天命と徳 [中国古代史]

ちょっと雑感をば。

いやはや、孔子がらみであれこれ調べていたら、違和感ばりばりなのはなんだろうと思ったわけですが、その前は殷代の甲骨文書と青銅器の金文を読んでいたんですよね。
そこから、春秋左氏伝と史記に飛ぶと、ものすごく違ってくるんです。
これはなんだろーって感じです。

たとえば、孔子が「我十有五にして学に志す……五十にして天命を知る」という言葉がありますが、この「天命」って何だろうとかね。
あ、そういえば「学」もね。
「学問」と簡単にいっちゃうけど、そもそも孔子の時代に学問っつー言葉はあるのか、とかね。
どうも「学」という字の旧字「學」は、室内で礼楽の型をひとつひとつ教えられるという意味らしいんですね。
だとすると、孔子が志したのは、ほかならぬ礼楽で、それは十五になるまでは学べなかったのかなぁとか。

ま、それはおいといても、「天命」です。
これをね、「天が孔子にかくかくしろと命じた」という意味に、大体において捉えているわけですよね。
孔子が聖人君子であることを前提として、彼がかくあるべく天が定めたことを、孔子自身が認識した、と。
まぁ、しかしこれが周代の認識で考えると、どうにもあわないわけですよ。
つまり、「天命」というのは、そういう個人個人がどうこうというものではない。
「天」というのは、そもそもが部族神であったものを、殷から周にかけて、全体神として集合していったひとつの理念であって、それは殷とか周とかの国体(変な言い方をしますが、まだ国家というものは存在していないと思うので、部族連合を統率する形ぐらいの意味にとってください)に対して、いわばその統率する権利をバックアップするようなものだったと思われるわけです。
ここに付随するのが「徳」で、これはもともと、「目の力」すなわち、睨む呪力だったわけですね。
この呪力は、殷の王さまに代々つたえられていたことになっていて(実際は、そういう能力をもったものが王になっていたんではないかと思われ)、したがって「徳は血筋で継承する」という認識ができあがってくる。
一方の天命は、周の文王が受けた!と言い張っているもので、それは殷から周に王権が移動した(というのも語弊があると思うけれど、まぁ、そういうことにしておきましょう)ときの周側の主張なわけです。つまり、天は殷が非道であるので、周に王権を受けるように命をくだしたのだ、とね。
この文王(実際にはこの人は、別に王さまになったわけじゃないのよね。ただ、あとから諡したわけです)が天命を受けるというのは、すでに武王の時代には理念として存在したというか、そもそも、武王が殷の紂王を討伐するための大義名分にしたっぽい。
そして、この大義名分の形を作ったのは、太公望の入れ知恵なんじゃないかなぁ、となんとなく思ったりして。
何をどう言い繕おうと、そもそも殷の家臣である周侯(文王も武王もそういう存在だったわけです)が、主人である紂王を殺すというのは、忠義に悖るわけです。(実際に、伯夷叔斉はこれを指摘して、武王に従わないわけですな)でも、紂王は非道なのでこれを倒さなければいけない、という大義名分をもって、勝てば官軍なわけですよ。
そのための「天命」であって、この天命の理論というのは、周代を通じてどんどん理念化されてる気がします。
そして、王が天から命をくだされて、その王がまた家臣に命をくだして、というように、ヒエラルキーに沿って命がおりていくという図式ができあがっていく。
そうやって受けた命というのは、主君のさずけた恩義なのであって、受けた側はおりおりに恩義をありがたく感じながら、これを代々つたえていくのである、と。それが徳なのだ、と。
そういう認識が周代の青銅器の金文から読み取れるというようなことは、小南一郎氏が『古代中国 天命と青銅器』で詳しく説明してくれています。

で、問題は、この認識と、孔子の時代の「天命」や「徳」とのあいだに、かなりのぶれがあることですな。
まぁ、「徳」という言葉に関しては、殷代と周代ですでにぶれがあるので、何をかいわんや、という感じはありますが、それにしても、さらに孔子の時代、あるいは論語がまとめられる時代になると、どんどんぶれていくような感じですね。それが倫理的な意味で用いられることになるってことだと思うわけですが。
もともと「徳」という言葉に倫理的な意味はなかった。それは「天命」もそうです。これは絶対的な力であり意志であり、そこに人心の介在する余地はなかった。そのぐらい「天」は絶対的であるという意味では、ユダヤ的かもしれませんね。だから天命というのも勝手におりてくるものであって、人間のがわには選びようがなかった(これまた、カルヴァンの恩寵予定説みたいなもんですな)と思われるわけです。
が、周の文王が天命を受けるに際して、何やら、文王が身を謹んでいたからくだった、みたいな解釈がされる。この解釈はかなりあとからされるんじゃないかと思うんですけど、とにかく、修身ということが言われるようになるわけです。それ自体、なんつーか、かなり後代のもの、孔子の時代というよりももう少しあとっぽい印象があるんですけど、まぁ春秋から戦国にかけて、さまざまな書が編まれていく中で、このような書を実際に書いて編集して形にしていく史と呼ばれるグループが孔子の弟子である儒教教団と密接な関係をもっていって、やがては儒者が史となる、というような展開がみられるわけですね。そこで、言葉で書き記されて残されるものには、修身的な文辞が使われるわけです。いわく「身を慎んだので王になった」とか「身を慎まなかったので、王を追われた」とかね。
でも、本来、身を慎むとか慎まないとかに関係なく、天命ってのはあったと思われるわけですよ。
そして実際に、身を慎んだらいいことあるのかってーと、あまりそうでもないのが中国の哀しい部分でして。
なんとなく、そのへんを悟ってしまったのが、「天命を知る」だったら、そりゃぁつらいわねぇ……。
いや、もちろん、そうだという確証はありませんが(^ ^;)。


歴史書について、考える [中国古代史]

現在、『春秋左氏伝』を読んでいるんですが、なんというか、書いてあることと評価とのギャップが激しすぎて、あれれ?と思うことが多くあります。
つまり、現実にその時代に起こっていることと、それを評価する時代の感性が、ものすごくブレているということですね。
これは、左氏伝の時代にはまだ、ほとんど儒家というものが形成されておらず、あるいは、後半にようやく形成されはじめたといっても、それが思潮の中枢になるということはなかった、ということと関係が深いのかなぁと思ったり。
ちょうど、左氏伝も後半あたりで、孔子がでてきて、じたばたしているわけです。
……うん、じたばたしてるんだよね、この人が(^ ^;)。
後世の、聖人のような孔子像からは似ても似つかないジタバタぶりです。
なんかちょろっとでてきて、少しだけ活躍したかと思うんですが、すぐ歴史の表舞台からいなくなってしまう。
あちこち放浪したらしく(このへんの話は『史記』にでてくるんですが)結局、きちんと仕官するなんてことはできなかったっぽい。
まぁ、「仕官」という発想そのものがですね、この時代にはまだ定着していないわけで。
しかも孔子が理想とする君主っていうものが、もう現実からかけ離れまくっているので、「そんなもんいるわけねーだろー」と突っ込みたくなるような有り様。
存在しない君主を求めて放浪する孔子って……誇大妄想狂ですか?
しかも孔子が「これぞ!」と絶賛している周公旦とか周の礼法とかってのも、どうも孔子の頭の中で妄想膨らませてできあがったシロモノっぽいこと夥しい。
しかもそうやって孔子が練り上げた「理想」が、いわばその後の中国思潮のデファクト・スタンダードになってしまうわけですから、オソロシイ……。

そして、孔子はどうやら、「史」という役職についてたんじゃないかと思わせる雰囲気があるんですが、その後の、まぁ、漢代以降ですが、史書と呼ばれるものが書かれるようになってくると、この孔子の理想がデファクト・スタンダードになって、その門下生が史書を書くのがあたりまえとなってきます。
だから、中国の歴史書ってやつは、孔子の理想が満載なわけで、そこから少しでもはずれると、とたんに「アウト!」とレッテルをはられてしまう。
たとえば、女性が表で何かやるのは、絶対ダメですよね。
だから武則天なんか、論外なわけです。が、実際には武則天のような存在があって、ほかにも女性が力を振るった例は(隠しきれずに)存在する。でも、そういうものは、とにかく「ダメダメだった」というレッテルで潰していく。
そうなると、史書というものに書かれていることが、どのぐらい「本当」なのかってのは、かなりの眉唾なわけでして、そこらへん、「儒家の怨念」を斟酌しながら読まないと、通り一遍なお題目的歴史になってしまうのですね。
いわゆる悪女と呼ばれる人たちも、そういうレッテルでずーーっと語り継がれてきたわけで、それはどうよってところがいっぱいあるわけです。

それとは別に、左氏伝を読んでいて、つくづくと度し難いなぁと思うのは、王とか諸侯と呼ばれる支配階層です。
本当に骨肉の争いは平気でするわ、倫理感ないわ、わがままだわ、人のいうこと聞かないわ、好き勝手するわで……ちょっとでも「まとも」なことすると、すぐに覇者になれます、はい。
いや、斉の桓公なんて、相当にひどいよね、これと思うんだけど、それでも管仲のいうことだけはなんとか聞いていたから、十分に覇者になれちゃった、っつーぐらいのもんです。
みんな……人のいうこと聞こうよ(泣)。
逆に言うと、これらの支配階層が、なぜ、他人のいうことに耳を貸さない存在になっているのか、そのへんから民族性を探るというのも、面白そうですけれどね。
鍵は殷代にあると見た。

ま、それはさておき、左氏伝にでてくる女性たちって、なかなか興味深いので、少しずつ紹介してみようかなぁと思います。というか、左氏伝にでてくる女性たちを順番に紹介するだけで、何かが透けて見えると思うんだな。


孔子について考える~続き [中国古代史]

ところで、孔子が、母が死んだあと、人に訊ねて父の墓に母を合葬したという話ですが。
人というのは、隣人で、その人が教えてくれたというのがどういう意味かはさておいて。
おそらく、父の家というのは、正妻がいて、そこに子供たちもいたんだと思うんですね。
で、母親を合葬してもよいという許可は、その子供たち(孔子にとって母のちがう兄弟ということになります)が出したことになります。つーか、出さなかったら合葬はできないわな。
そうすると、孔子が父の庶子であることを兄弟が認めたということになって、そこで孔子は孔家の子として認められるってーことではないだろーか。
それが15歳だったとしたら?

なぜかというと、孔家は一応、宋の侯家の分かれってことになってるわけです。で宋侯家の祖先というのは微子啓なんですね。
この微子啓って人は、殷の紂王の庶兄だとされてます。で、この微子というのは、子姓のうち微という殷の先祖神を祀る家系だったんじゃないかと思うんですが、この微子の家系の中に、わかれて、周の王室で史官をやってる家柄があるんです。
史牆盤っていう青銅器があって、その銘文からわかるんですけどね。
てことは、微子の流れを組むってことは、そもそも殷の王室が独占していた甲骨文字の扱いに長けていて、周の王室が独占していた金文鋳造にも通じていて、要するに甲骨文字金文文字が扱える家だったんじゃないかと思うわけです。
で、殷代からおそらく竹に筆で文字を書いていただろうと言われています。筆はもしかすると殷より前からかもしれないとも言われています。
だから、考古学的な発見はないわけですが、甲骨文字や金文資料とは別に、文字書きの伝統はすでにあっただろうと思えるわけですね。
これを王家が独占していたかどうかは分かりませんが、いずれにしても春秋になると、文字は各国に普及していきますから、当然、それぞれの諸侯が文字を扱える者を召し抱えていたと考えられるわけです。
そして、各地に散らばったと言われる殷人、彼らの中にはそのネットワークを駆使して賈すなわち商人となったものも多いと思うのですが、それとは別に、各国の諸侯のもとで史すなわち書記になったものもいるのではないかしら。
孔氏という氏族は、宋だけではなく衛にもいたようで、孔文子という卿が孔子を引き止めようとして云々という話が『史記世家』にもあります。
で、ながながと話してきたけれど、要するに、孔子の父親の家というのは、魯で史官だったのではないかと思うわけですね。
15の時に、庶子である孔子は、母親の葬儀で本家と連絡がつき、子として認められ、孔氏を名乗れるようになったのではないか。それまでは、要するに彼は顔家の私生児だったのではないか。(母親が顔氏だったのです)
で、史官である本家の仕事をするために、学問をはじめた。それが「学に志す」なのではないか、とまぁ、こんなふうに考えるわけです。
この孔家が季氏の史官だったかどうかは、わかりませんけどね。
『史記』ではこんなふうにいってます。

孔子貧且賤。及長,嘗為季氏史,料量平;嘗為司職吏而畜蕃息。由是為司空。已而去魯

孔子は貧しくかつ賤しかった。長ずるに及んで、季氏の史となり、秤の使い方は公平だった。さらに司職吏となり家畜がよく肥えた。これがゆえに司空となったのち、魯を去った。

なんかこう、よくわからない経歴ですよね。
孟子によると、この「史」は「吏」の間違いで、倉庫番だということになってます。
また、「司職吏」というのは、家畜の繁殖係だそうです。
う~む、それから、司空になるって?たしか、司空って、六卿のひとつですよね? 賤しい身分の、士とはいえ底辺ぎりぎりの孔子が、史とか吏とかいう立場から、いきなり司空になるかしらん?
まぁ『史記』によると孔子は大宰相になったみたいだから、そのへんは吹いているかもしれませんが。
それとは別に、『周礼』なんかの記事をみていると、下級官吏に「史」という身分があるようなのですね。これは身分からいうと、上のほうではないけれど、一番下でもないって感じです。
卿が一番上で、その下に大夫がいて、これが上中下といるわけですね。その下が士で、これまた上中下といます。その下に府、史、胥、徒なんていうのがいて、こうなると、足軽に近いのかしらねぇ。
いずれにしても、そんなに高い身分じゃないですね。
まぁ、司空になったといっても、司空の下っぱってことかもしれませんが。
で、「司職吏」というのは、つまり「牛人」である、という説がありますが、この「つまり牛人」っていうのがよくわかんない。
牛人はですね。

牛人:中士二人,下士四人;府二人,史四人,胥二十人,徒二百人。

というふうに『周礼』に書かれてまして

牛人:掌養國之公牛,以待國之政令。凡祭祀,共其享牛、求牛,以授職人而芻之。凡賓客之事,共其牢禮積膳之牛;饗食、賓射,共其膳羞之牛;軍事,共其槁牛;喪事,共其奠牛。凡會同、軍旅、行役,共其兵車之牛與其牽旁,以載公任器。凡祭祀,共其牛牲之互與其盆簝以待事。

まぁ早い話が、祭祀や饗宴に使う牛を養う係ですから、たしかにそのあとの「畜蕃息」というのはわかるわけですけどね。
まぁ、『史記』の話のどこからどこまで本当かなんて、全然わかんないわけですから、細かいことをうろうろ言ってもしょうがないといえばしょうがないんですけど。
気になるじゃありませんか(^_^;)。

でも、なんとなく、孔子は史官の下っぱだったんじゃないかなぁって、思うわけです。
つまり、史官だと、いろいろな書き物を見ることができる。読むことができる。
そこから演繹力と想像力を働かせて(孔子の場合、想像力が豊かだったように思えますのでね)、ここで書かれているのは、あれなんじゃないか、とか、これとこれがこうなら、あれはこうなんじゃないかとか、穴埋めしていくことができると思うんですよね。
ただ、そもそも孔子が参考にした書き物っていうのが、おそらく各国から通達された文書とか、青銅器に鋳造された銘文とか、あるいは各種冊命ですね、君主が臣下になんらかの命を下す時の文書、そんなもんじゃないかと思うわけです。
そのへんは、なんというか、美辞麗句というか、きれいごとというか、ある意味、机上の空論っぽいものだったと思うわけで、それを孔子が真に受けたのかなぁってなんとなく思ったりしています。
殷周の実態なんかを考古学の出土品から考えると、孔子が理想としていた周公の礼とかって、絵空事っぽく思えるんですよね。でもその絵空事の伝承はあったんだろう。そうした伝承は、史と呼ばれる人たちによって書として保管されていて、参照することも可能だったんじゃないかと思うわけです。
ただ、各国にそれぞれ配られていたかというと、それは疑問ですよね。どういうときにどうすればいいか、あるいはこんなことがあったのはなぜなのか、わざわざ孔子に問うことがあるってことは、みんな知らないわけですから。
(そういや、そんな感じできかれて詳しく説明したので、あの人はものをよく知ってると言われた人に、鄭の子産がいますねぇ。孔子がすごく尊敬した人だけど。孔子30歳のときに、子産が亡くなっているんですよ。「30にして立つ」と関係あるのかな?)
ま、そんなことをつらつらと、考えてます。えぇ、妄想ですとも。


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