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素盞鳴尊の謎 [素盞鳴尊]

スサノオのミコト。
イザナキとイザナミの間に生れた、三貴子の一人で、アマテラス、ツクヨミについで、三番目ということになっている。
「なっている」というのは、たとえば、蛭子がいたりとか。ほかにも二人の間にいろいろ神は生れているのだけれど。
いや、そもそも古事記じゃあ、イザナキが一人で生んだことになっているけど。
とにかく、すったもんだの挙げ句に、三人生れました、ということになっている。

アマテラスとツクヨミは、日と月で対比していて、セットで生れてくる。
たとえば、古事記では、左目を洗うとアマテラスが、右目を洗うとツクヨミが生れてくる。
(イザナミを追っかけてヨミの国にいって、ひどい目にあって戻ってきてから禊をするんで、洗うという行為があるのだ)
日本書紀の一書には、左手に白銅鏡(ますみのかがみ)を持った時に生れるのが、大日孁尊。
右手に白銅鏡を持った時に生れるのが、月弓尊。

この二人とは別に、スサノオは生れてくる。
間に蛭子を挟んだり。
カグツチが生れてイザナミが死んじゃったり。
いろいろあるけれど、日月の次ということで三番目になるのに、スサノオときたら、性格が悪いのだ。
とにかく根国へいけ、といって、追いやられてしまう。
あるいは母親を慕って根の国へいくというけれど、とにかく、放逐されるわけですな。
で、この放逐に関して、スサノオはアマテラスのところへ挨拶にいって、ひどいことをしまくった挙げ句に、アマテラスが天の岩戸に籠もってしまって云々……という展開になるんですが。

放逐された先が、出雲、ということになっちゃうんでしょうか、この話。
ふつうに読むとそう考えられます。
なぜなら、アマテラスと誓(うけい)をしたあと、すぐに、もうスサノオは出雲にきちゃうんです。
まぁそもそも、イザナキの命令で根の国にいくはずだったのに、スサノオってば「衆神(もろかみたち)、我を根の国に処く」と言ってますから、やっぱり追放だと思うわけですが。
まぁその後、息子たちを諸国に放って、それから根の国にいった、という説ものせられてはおります。
この根の国は紀伊、というか熊野だ、という伝承は古くからあるわけです。
つまり熊野信仰というのは、死者の魂が熊野に集まるという伝承から成り立っているのですね。
ま、何はともあれ、スサノオは、高天ヶ原から放逐されて出雲に下り、やがては根の国におさまるという構図になっております。

一書によると、スサノオはいったん新羅にいったんだけど、「ここはどうも自分にはいて欲しくないらしい」なぞと言って、息子を率いて船を作って出雲へと向かいます。
このへんになるとだいぶん人間くさくなってきます。というか、いかにもありそうというか。どこかで聞いたことあるぞ、というか。
そうそう、あれですよ。神武が日向を逃げ出す時のセリフと似てますよ。

それはさておき、このスサノオノミコト、ちょっとおもしろいところに、おもしろい出方をしています。
それは宋史日本伝、です。
宋史というのは中国の史書で、正史の一つです。元代の1345年に成るとありますので、成立はかなりくだるんですが、宋時代の史料を多数使っているのだそうです。
それはさておいて、この日本伝で、宋の第二代皇帝太宗の時に、奝念という日本の僧侶がやってきて、「職員令」と「王年代紀」を奉った、とあります。
この王年代紀には神代の系譜も書かれていて、それが二十三世だということで、きっぱりはっきり、写し取られているんですが、「伊奘諾尊、素戔烏尊、天照大神尊」とありまして、スサノオがイザナギの息子で、アマテラスはそのまたスサノオの息子という設定になっているんですね。
(中国へ献上する史書なんで、アマテラスが女神じゃまずいって発想なんでしょーけど)

実は、遣隋使遣唐使、あわせて20回ぐらいあるんですが、彼等は国書を持っていっていない、ということになっています。
中国からみますと、日本からの使者というのは「朝貢使」でありまして、それ以外の方法で中国の朝廷と何らかの関係を持つことは不可能だったわけですが、大和朝廷側は、朝貢の事実を国書に記することをよしとしなかったので、朝貢の事実の書かれていない国書を献上するわけにはいかなかったようです。
したがって、日本書紀が選定されて天皇に献上されたであろう720年以降も、何度も遣唐使が海を渡っているのですが、日本書紀を携行していき中国の皇帝に献上したという報告はなく、中国側の史書にもそうした記録は残っていないのです。

奝念は藤原氏の人らしいのですが、出自についてはよくわからず、東大寺の僧で、入宋して新しい教義をもたらしたいと一念発起して、宗の商人の船に乗って中国へ赴き、宋の第二代皇帝太宗に謁見して、そのときに、「王年代紀」という書物を献上したことになるわけですが、これは中国側からすれば、国書を献上したはじめての日本の使者であって、これこそが正しい姿なのですね。
しかし、遣宋使というものは公には送られておらず、つまりは奝念は私費ででかけていったわけで、そこでやったことも大和朝廷には関係ないこと。
中国の史書には、もたらした国書からの引写しまであるというのに、日本側では黙殺であります。
しかも奝念さん、驚いたことに、中国の皇帝から、「法済大師」という称号と、紫衣までいただいています。
日本歴代の有名な僧侶をみても、中国の皇帝からじきじきに大師の称号をいただいているのって、この奝念さんぐらいしかいないようなのですが、そしてその後、東大寺の別当にもなっているのですが、奝念さん、大和朝廷には省みられることがなかったようです。

そうなるとこの「王年代記」というのは、日本書紀とは別に、中国に献上するために、奝念の周辺で新たに作られたものなのかなぁって感じもするんですが。
そもそも日本書紀というものが、朝廷以外のところにどのぐらい流出していて、国書として公に認められていたのか、とんとわかんないんですね。

ついでにいうと、奝念という僧侶がどのぐらい忘れ去れているかというと、この検索し放題のネット世界において、yahoo!で一件のみ、googleでは見当たらないというほどです。
いや、これはちょっとすごいな。
なんかスサノオから話がはずれてきているような気もしますが。

いずれにしても、イザナキのあとに、スサノオ、アマテラスと続く系譜というやつが、10世紀の後半に、捏造されたのにしろ、なんにしろ、厳然とあって、中国皇帝に献上された、ということです。
まぁ、宮中において、アマテラス信仰はいかほどのものであったか、という疑念はあります。
天武持統時代をみても、広瀬と竜田の神を祀るという記事はいやほどでてくるんですが、アマテラスというのは斎宮を任じて伊勢に放りこんで終わりなんですね。

そもそも日本書紀というやつは、卜部本といいまして、卜部家が伝えている写本しか残っていません。写本そのものの年代も決して古くはないようで、鎌倉時代のものや室町時代のもののようです。
もっとも、日本書紀が撰修されたという事実は、たとえば紫式部が「日本紀局」と呼ばれたように、平安朝の物語や日記の中にもでてきますし、弘仁年間以降、大体30年に一度の割りで、数年に渡って日本紀を講筵するという風習が承平年間ぐらいまではあったようで、その記録や、それに伴う宴席における和歌などが残っているので、間違いはないと思います。
卜部家に残されていた写本というのは、おそらく神祇伯家が持っていたものを写しただろうというあたりまでは研究されているようです。
でも、宮中に正本が残っているわけではなく、神祇伯-卜部系以外にほとんど流出もしていない、というあたり、何やら不思議な書物ではあります。

卜部といえば、中臣に率いられる祭祀集団で、そのもとは、壱岐・対馬にあります。
てーことは、由緒正しい「倭」人なわけです。
祝詞と亀卜が卜部の得意とするところ。
かの吉田兼好もまた、この家系の出身ですね。

壱岐・対馬といえば、またいろいろと謎を提供したい土地なのですが。
それはさておいて、強引にスサノオに話を戻してしまうと、どうしてスサノオは三貴子の一人なんだろうということになります。

系列というか、ネーミングからして違うよね。
というあたりは、また、次回にしましょう。ちょっと長くなりすぎました。


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田辺省吾

 わたしもスサノオについて不思議に思っていることがあります。出雲風土記の意宇郡安来郷の地名説話で安来というのはスサノオが付けた地名としてでています。
 ここにはもう少し秘密があり、あまり有名ではないのですが、イザナミの神陵と呼ばれる比婆山久米神社があります。イザナミの神陵地は他にも多くあり、いちばん有名なのが広島県庄原市の比婆山です。
 しかし、ここで本居宣長の古事記伝などを読み返し、地図とにらめっこすると、ここ安来にある比婆山のほうが江戸時代の情報と符合する。そういうことをかんがえるとこのあたりが根の国であったことはほぼ間違いないと思うのですがだれもこの話をしている専門家が見当たりません。
 このあたりは数年前の高速道路工事で弥生遺跡が多数発掘されており、大集落を形成していたり、出雲様式の古墳である大きな四隅突出型方墳の集中も見られさながら弥生後期においては大都会だったような痕跡がみられます。
 私は勝手に思うのですが安来節の歌詞で「安来千軒名の出たところ」とある千軒はこのことを指しているかもしれないと思ったりもします。
 古事記でスサノオが降臨したと言われる鳥髪山は安来市の南に隣接する奥出雲町にありますし、ヤマタノオロチ退治の行為からスサノオが製鉄神だと言う説が当てはまるがごとく、安来市は昔から続く製鉄の町で、日本式のたたら製鉄から発展したと聞きます。
 しかしながら、出雲風土記を振り返ると、意宇郡母里郷(ここも安来市)の地名由来の解説で、ヤマタノオロチは大穴持(オオクニヌシ)神がしたとあり何がなんだかわからない情況になっております。
by 田辺省吾 (2006-06-21 22:22) 

竹田

 この安来あたりは妻木晩田や陽徳遺跡に代表されるように弥生後期の鉄器の出土が全国的にみても多い地域です。
 このようなながれから古来より雲伯国境の砂鉄を用いて日本の鉄は明治初頭まで作られ続けました。
 いまでも、日立金属関連の会社が冬場、古代と同様の砂鉄によるたたら製鉄を年に数回やっていますが、見に行った方はすごく感動した話を聞きます。
by 竹田 (2008-01-28 19:24) 

tenko

またまたコメントありがとうございます~。

根の国は、私は紀州熊野かなぁと勝手に思っておりました。
あのころは、出雲から紀州まで、一大勢力があって、でも畿内に別勢力が入り込んでしまったせいで、出雲と紀州は分断されたんじゃないだろうか、とかね。
スサノオの子供神がらみで植林の伝説が多いのですが、これがまた紀州に結びついているんですね。
神武天皇が畿内に直接はいれずに、ぐるっと熊野を回って、紀伊半島の東側から再上陸して山越えして畿内を攻めた話とか、仁徳天皇の妃である磐之媛が神事に使う葉を取るために熊野まで出向いたなどという話を見ても、熊野の持っている奥深さは感じられるんですが、そういった特殊な状況が、実は出雲に結びつくんじゃないだろうか、などというのも妄想の領域であります。
製鉄は当時、新しい技術として、「神の領域」にも思われただろうと思います。
古代を彷彿とさせるたたら製鉄、一度ぜひ、見てみたいものです♪
by tenko (2008-04-20 19:33) 

鉄鋼歴史ファン

 それにしても安来というところは色々と伝説的話がある。これは戦時中、日本海軍が開発したネ-20という国産初のジェットエンジンの話なのだが、ドイツから伝えられた少ない情報から悪戦苦闘をして開発したという話で、どこかアニメ映画「宇宙戦艦ヤマト」を髣髴させる話だが。そこになんとかという博士が登場して新合金を開発して開発の頓挫を救ったということだ。
 つまりネ-20とは20世紀における根国最高傑作の発明だったといわんばかりのネーミングに思えてなりません。
by 鉄鋼歴史ファン (2014-06-28 05:02) 

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