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「春秋の筆法」で書記を読む~1 天皇逝去篇 [春秋の筆法]

前記事で紹介した、「春秋の筆法」で、書記を読み直してみよう、という試みです。
「春秋の筆法」とは、孔子が『春秋』を著すうえで取った、独特の文章スタイルのこと。
簡潔を旨とし、余計なことは言わないが、「あえて書かなかった」部分で、裏の事情をそれとなく読者に知らしめるというもの。
前記事では、魯公の逝去記事について紹介したので、これと同じものを選んでまずやってみましょう。

そもそも、日本書紀じゃ天皇の暗殺だって堂々と書かれているじゃないか、「春秋の筆法」なんか使われているはずはない、と思われるあなた、まずはごらんあれ。
(文中、「時に年幾許」とある場合、幾許にはそれぞれの数字がはいっております。「若干」の場合は本文ママです)

神武 天皇、橿原宮に崩(かむあが)りましぬ。時に年幾許。
綏靖 天皇不予(みやまひ)したまふ。癸酉に、崩りましぬ。時に年幾許。
安寧 天皇崩りましぬ。時に年幾許。
懿徳 天皇、崩りましぬ。
考昭 天皇崩りましぬ。
考安 天皇崩りましぬ。
考霊 天皇崩りましぬ。
考元 大日本根子彦国牽天皇崩りましぬ。
開化 天皇崩りましぬ。
崇神 天皇、践祚(あまつひつぎしろしめ)しての○年○月の○日に、崩りましぬ。
垂仁、纏向宮に崩りましぬ。
景行、高穴穂宮に崩りましぬ。時に年幾許。
成務、天皇崩りましぬ。時に年幾許。
仲哀、天皇、忽(たちまち)に痛身(なや)みたまふことありて、明日(くるつひ)に、崩りましぬ。時に、年幾許。即ち知りぬ、神の言を用いたまはずして、早く崩りましぬることを。[分注]一(ある)にいわく、天皇、親(みづか)ら熊襲を伐ちたまひて、賊の矢に中(あた)りて崩りましぬといふ。
神功皇后、皇太后、稚桜宮に崩りましぬ。[分注]時に年幾許。
応神、天皇、明宮に崩りましぬ。時に年幾許。[分注]一にいわく、大隅宮に崩りましぬという。
仁徳、天皇、崩りましぬ。
履中、天皇、玉体(おほみ)不悆(やまひ)したまひて、水土弗調(やくさ)みたまふ。稚桜宮に崩りましぬ。[分注]時に年幾許。
反正、天皇、正寝(おほとの)に崩りましぬ。
允恭、天皇崩りましぬ。時に年若干(そこばく)。
安康、天皇、眉輪王の為に殺(し)せまつられたまひぬ。
雄略、天皇、疾(おほみやまひ)弥(いよいよ)甚(おも)し。百寮(つかさつかさ)と辞訣(わかれ)たまひて、並びに手を握りて歔欷(なげ)きたまふ。大殿(おおとの)に崩りましぬ。
清寧、天皇、宮(とつみや)に崩りましぬ。時に年若干。
顕宗、天皇、八釣宮に崩りましぬ。
仁賢、天皇、正寝に崩りましぬ。
武烈、天皇、列城(なみき)宮に崩りましぬ。
継体、天皇、病(おほみやまひ)甚(おも)し。天皇、磐余玉穂宮に崩りましぬ。時に年幾許。
安閑、天皇、勾金橋宮に崩りましぬ。時に年幾許。
宣化、天皇、檜隈(ひのくま)廬入野(いほり)宮に崩りましぬ。時に年幾許。
欽明、天皇、遂に内寝(おほとの)に崩りましぬ。時に年若干。河内の古市に殯す。新羅、某を遣して、殯に奉哀(みねたてまつ)る。
敏達、天皇、病弥留(おも)りて、大殿に崩りましぬ。この時に殯宮を広瀬に起つ。(馬子と守屋の誄)
用明、天皇、大殿に崩りましぬ。
崇峻、馬子宿禰~すなわち、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)をして、天皇を弑(し)せまつらしむ。この日に、天皇を倉梯岡陵に葬りましぬ。
推古、天皇、臥病(みやまひ)したまふ。~天皇、痛みたまふこと甚だしくて緯むべからず。~天皇崩りましぬ。[分注]時に年幾許。即ち南庭(おほば)に殯す。秋九月にはじめて天皇の葬礼を起こす。この時に、群臣各々殯宮に誄す。
舒明、天皇、百済宮に崩りましぬ。宮の北に殯す。これを百済の大殯という。このときに東宮開別(ひらかすわけ)皇子、年十六にして誄したまふ。
孝徳、天皇、正寝に崩りましぬ。よりて殯を南庭に起つ。
斉明、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。~~天皇の葬(みも)をもって、飛鳥の川原に殯す。これより発哀(みねたてまつ)ること、九日に至る。
天智、近江宮に崩りましぬ。新宮に殯す。
天武、天皇の病、遂に差(い)えずして、正宮(おおみや)に崩りましぬ。初めて発哭(みねたてまつ)る。即ち殯宮を南庭に起つ。(以下、「みね」と「しのびごと」の事例が延々と)

持統天皇は譲位しているので、日本書紀における天皇の死亡例はここまでです。

ながながとやってきましたが、ただ「崩りましぬ」という例と、「どこそこに崩りましぬ」という例があるということがお分かりいただけると思います。
同時に、年齢を書いている場合とそうでない場合があることもお分かりいただけると思います。
そして後半、殯や誄といった葬礼に関する情報が増えていることがわかります。
これは欽明からなので、欽明天皇以降、葬礼が変わったということが判明します。
私は欽明は外来の天皇だと思ってますんで、ここで半島の葬礼を持ち込んだと考えます。「みね」奉るのが新羅からの遣人だけってのも、それっぽいですね。

基本的に、正寝とか~~宮というところでお亡くなりになるのが、普通に病死しました、という意味です。そして、古い天皇であっても、宮の在所ぐらいはわかりますから、その気になれば付け足すことができるのにやってない、という事例は、やはり穏やかな死ではなかったのかなぁ、と邪推できます。事前に病気についての説明がある場合は、病死でよいと思うのですが、それでも、推古の場合は死んだ場所が書かれていないのは、ちょっと妙な感じです。
そして、舒明「のみ」南ではなく北に殯宮を作っているのが、すごく変ですね。百済宮でなくなったから、これを「百済大殯」という、なんて書いてありますが、それもすさまじくおかしいです。しかも百済宮って、どこなんでしょう。なんでまた百済宮?

いずれにしてもこの書き出し、やってみたらすごく面白かったんです。
とりあえず、ただの死亡記事が、安寧、懿徳、考昭、考安、考霊、開化、成務、仁徳、允恭までです。仁徳がただの崩御ってのが、ちょっとオドロキでした。
病気の記事は後半増えてきますね。それだけ情報が豊富なのでしょう。
仲哀なんかは、死亡記事が錯綜してます。
応仁も死亡した宮が複数言い伝えがあって、はっきりしません。
こんなところからも、いろいろ邪推できそうで、楽しいです。

こうなってくると、即位記事とか、御陵の記事とか、あるいは奥さんと子供の記事とか、それぞれ別々に並べてみると楽しそうですね。
まさしく解体作業というにふさわしいかも。


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コメント 4

まさに解体ですね。

大王の臨終の姿、葬られ方は気になる点でした。
「あれ?」って思うんだけど、こういう抽出の仕方というのはなかなか手がかかるもので・・・。
個人的な資料として使わせていただいてもよろしいでしょうか。
by まさに解体ですね。 (2005-02-21 21:50) 

点子

微妙に、日本書紀原典と変えてある部分がございます。
それをご了承いただけるなら、お使いいただいてもけっこうですよ~。
岩波文庫の『日本書紀』から引っ張ってきたんですが、見比べやすいように、年齢とか削ってしまったので。
こういう抽出が意外に面白いんで、即位のこととか、御陵のこととか、子供のこととか、順番にやってみたいなぁと思っています。
が、現在なんだか時間が取れなくて、放置状態になっちゃってて、ちょっとうじうじしてまーす。
by 点子 (2005-02-25 02:49) 

ロスト

はじめまして、TB間違えて二つ飛ばしてしまいました。
殯宮の儀を飛ばすつもりだったのですが……
ごめんなさい。

記紀を勉強中なので参考にさせていただきます。

失礼しました。
by ロスト (2005-05-09 17:09) 

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