「春秋の筆法」で書記を読む~2 天皇葬法篇 [春秋の筆法]
その1は、天皇の薨去の文例を並べました。
で、その2は、こんどは葬法について、並べてみたいと思います。
1.神武 「明年(くるつとし)の秋九月の乙卯の朔丙寅に、畝傍山東北陵に葬りまつる」(神武七十有六年条)
2.綏靖「元年(はじめのとし)の冬十月の丙戌の朔丙申に、倭の桃花鳥(つき)田丘上陵に葬りまつる」(安寧条)
3.安寧「秋八月の丙午の朔に、畝傍山南御陰(みほと)井上陵に葬りまつる」(懿徳元年条)
4.懿徳「明年(くるつとし)の冬十月の戊午の朔庚午に、畝傍山南繊沙谿(まなごのたに)上陵に葬りまつる」(考昭条)
5.考昭「三十八年の秋八月の丙子の朔己丑に、掖上(わきのかみ)博多山上陵に葬りまつる」(考安条)
6.考安「秋九月の甲午の朔丙午に、玉手丘上陵に葬りまつる」(考霊元年条)
7.考霊「六年の秋九月の戊戌の朔癸卯に、片丘馬坂陵に葬りまつる」(考元条)
8.考元「五年の春二月の丁未の朔壬子に、剣池嶋上陵に葬りまつる」(開化条)
9.開化「冬十月の癸丑の朔乙卯に、春日率川(いざかわ)坂本陵に葬りまつる。一(ある)にいわく、坂上陵。」(開化六十年条)
10.崇神「明年(あくるとし)の秋八月の甲辰の朔甲寅に、山辺道上陵に葬りまつる」(崇神六十八年条)
「冬十月の癸卯の朔癸丑に、山辺道上陵に葬りまつる」(垂仁元年条)
11.垂仁「冬十二月の癸卯の朔壬子に、菅原伏見陵に葬りまつる」(垂仁九十九年条)
12.景行「二年の冬十一月の癸酉の朔壬午に、倭国山辺幹上陵に葬りまつる」(成務条)
13.成務「明年の秋九月の壬辰の朔丁酉に、倭国の狭城(さき)盾並(たたなみ)陵に葬りまつる」(仲哀即位前記)
14.仲哀「是年、新羅の役によりて、天皇を葬りまつること得ず」(仲哀九年条)
「即ち天皇の喪(みもがり)を収めて、海路より京に向(いでま)す」(神功皇后即位元年条)
「二年の冬十一月の丁亥の朔甲午に、河内国の長野陵に葬りまつる」(神功皇后条)
15.神功皇后「冬十月の戊午の朔壬申に、狭城盾並陵に葬りまつる」(神功皇后六十九年条)
16.応神……記載なし
17.仁徳「冬十月の癸未の朔己丑に、百舌鳥野(もずの)陵に葬りまつる」(仁徳八十七年条)
18.履中「冬十月の己酉の朔壬子に、百舌鳥耳原陵に葬りまつる」(履中六年条)
19.反正「冬十有一月の甲戌の朔甲申に、耳原陵に葬りまつる」(允恭五年条)
20.允恭「冬十月の庚午の朔己卯に、河内の長野原陵に葬りまつる」(允恭四十二年条)
21.安康「三年の後、乃(いまし)菅原伏見陵に葬りまつる」(安康三年条)
22.雄略「冬十月の癸巳の朔辛丑に、丹比(たぢひ)高鷲原陵に葬りまつる」(清寧元年条)
23.清寧「冬十一月の庚午の朔戊寅に、河内坂門原(さかとのはら)陵に葬りまつる」(清寧五年条)
24.顕宗「冬十月の丁未の朔己酉に、傍丘(かたをか)磐杯丘(いわつきのおか)陵に葬りまつる」(仁賢元年条)
25.仁賢「冬十月の己酉の朔癸丑に、埴生坂本陵に葬りまつる」(仁賢十一年条)
26.武烈「二年の冬十月の辛亥の朔癸丑に、傍丘磐杯丘陵に葬りまつる」(継体条)
27.継体「冬十二月の丙申の朔庚子に、藍野陵に葬りまつる」(継体二十五年条)
28.安閑「是の月に、河内の旧市(ふるいち)高屋丘陵に葬りまつる」(安閑二年十二月条)
29.宣化「冬十一月の庚戌の朔丙寅に、大倭国の身狭(むさ)桃花鳥(つき)坂上陵に葬りまつる」(宣化四年条)
30.欽明「秋八月の丙子の朔に、新羅、弔使(とぶらひ)未叱子失消(みししししょう)等(ら)を遣して、殯に奉哀(みねたてまつ)る。
九月に、檜隅(ひのくま)坂合(さかい)陵に葬りまつる」(欽明三十二年条)
31.敏達「是のときに、殯の宮を広瀬に起つ」(敏達十四年秋八月条)
「四年の夏四月の壬子の朔甲子に、磯長(しなが)陵に葬りまつる。是其の妣(いろは)皇后の葬られたまひし陵(みはか)なり」(崇峻条)
32.用明「秋七月の甲戌の朔甲午に、磐余池上陵に葬りまつる」(用明二年条)
33.崇峻「是の日に、倉梯(くらはし)岡陵に葬りまつる」(崇峻五年十一月条)
34.推古「秋九月にの己巳の朔戊子に、始めて天皇の喪礼(みものこと)を起す。是の時に、群臣(まへつきみたち)、各(おのおの)殯宮に誄(しのびことまう)す。是より先に、天皇、群臣に遺詔(のちのみことのり)して曰く、「比年(としごろ)、五穀登らず。百姓大きに飢う。其れ朕が為に陵を興てて厚く葬ること勿(まな)。便に竹田皇子の陵に葬るべし」とのたまふ。壬辰に、竹田皇子の陵に葬りまつる」(推古三十六年条)
35.舒明「甲午に、初めて喪(みま)を発す。壬寅に、滑谷岡に葬りまつる」(皇極元年十二月条)
36.孝徳「十二月の壬寅の朔己酉に、大阪磯長(しなが)陵に葬りまつる」(孝徳白雉五年条)
37.斉明「六年の春二月の壬辰の朔戊午。天豊財重日足姫天皇と間人皇女とを小市岡上陵に合せ葬せり。是の日に、皇孫大田皇女を、陵の前の墓に葬す」(天智条)
一応、斉明天皇までといたします。
でも実際は、欽明以降は、殯(もがり)について、もっと詳しく引用したほうがいいかもしれないなぁ。
とりあえず、その天皇の条の最後か、次の天皇の条の冒頭のあたりに大体あるんですが、ときどきそうでないものがあって……要注意です。
これを見て分かることは、崇神と垂仁とで、書き手が違い、使っている暦も違うということ。
応神の記載がない(でも応神陵というのは認定されているんだよね?)ということは、どれが応神陵と書記選定(あえて、選定といおう)時に決定できなかっただろうということ(^_^;)。
殯がはじまるのは欽明天皇からで、つまり欽明朝以降、葬儀方法が変わったということですな。
あと、合葬というのも注目すべきポイントだとおもうのですが……さすがに羅列しただけで疲れてしまったので、とりあえず、ここで筆を置きます。
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