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『プロジェクト・スメラミコト』 [問題提起]

1.提唱者
 伽耶(任那)の風前の灯火の支配層

2.黒幕
 百済

3.初期実行者
 大伴金村

 このプロジェクトは、風前の灯火の伽耶を再興するために、倭(やまと)の兵力を糾合するものである。
 もともと半島勢力が倭の兵力を認識させられたのは、息長足媛(おきながたらしひめ・神功皇后)の強引な乱入であった。
 その後、越の勢力(もともと、息長足媛の背景は越と思われる)が、何回か半島へ押しかけているが、たいしたことはなかった。
 ところが、各勢力持ち回りで緩く束ねられていた海人(あま)の総帥に、強引にライヴァルをぶち殺して大権力をぶちとった大泊瀬幼武(おおはせわかたけ・雄略)がつくと、到底、無視しえない兵力を半島になだれこませるようになった。
 雄略の王国は一代で瓦解したと思われるが、倭の海人を糾合できればかなりの戦力になると半島側が認識したのは間違いあるまい。
 ならば、自分たちに都合のいい権力を倭にうちたて、大兵力を味方につけることができれば、伽耶も再興できるし、百済も安泰、と思ったのではないか。
 かといっていまから大兵力を送り込んで、倭を制圧して、雄略のような新たなオオキミをたてるだけの力は、伽耶はもとより百済にもない。
 そこで、彼らが考えたのが、プロジェクト・スメラミコトである。

 スメラミコトとは、「ミコト」を「統べる者」の意味ではないかと思われる。
 ミコトとは「御言葉(みことば)」であり、神や権力者の命令を意味し、はては命令をする神や権力者その人の尊称ともなったのであろう。
 ミコトは、キミと違って自前の権力を必ずしも持つものではなく、他者に命令する権能を持つことによって保たれる「ミコシ」のような存在ではなかったかと思われる。
 それらを統合するひとつ上の位、それが「スメラミコト」なのではないか。
 
 これに乗ったのが、雄略朝の末期から実力者として政治を仕切り、半島、特に百済と脈を通じていた大伴金村である。

第一段階「継体推戴」
 九州は大伴氏の勢力の範囲外だったと思われるので、もっとも半島に力を及ぼしやすい越の王を「スメラミコト」として、権力を持たせようとした。
 そうやって選ばれたのがオホド王(継体)である。
 金村の後押しを受けたオホドに、倭の勢力はある程度協力したと思われる。
 その代表格が近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)で、彼が将軍になって何度か新羅に出兵している。
 しかしたいして戦果はあがらず、親新羅と思われる筑紫王磐井(つくしおう・いわい)と毛野臣の間で戦争になり、大伴金村は物部アラカヒを筑紫に遣わし、磐井を撃破する。
 そこで毛野臣は首尾よく半島に渡ることができたが、いざ半島に到着してみると勝手気ままに権力を振るい、伽耶(任那)の貴族の総スカンを食い、あげく、百済・新羅と同時に戦闘するという無茶苦茶な事態に陥った挙げ句、打ち破られて逃走中に死亡する羽目になった。
 かくして、プロジェクト・スメラミコト第一段階は散々たる失敗に終わったのであった。

(以下続く)


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コメント 3

よろ

はじめまして、よろと言います。
古代史にはまっているみたいですねぇ
かなり本格的に研究されだしているようで、
謎が多いだけに面白いと思いますよ。
私も興味を持ってから3年くらいになりますが
今は九州王朝説に落ち着いてますね。
貴方は九州王朝説をどう思われますか?
by よろ (2005-12-14 18:44) 

小路千兵衛

サムイ・寒い・・沖縄よりも はるか北国の大阪からです。
僕の住んでいる、この場所は 金村の屋敷の跡。・・・と、信じ込んでいます。
ですから、息子の狭手彦も、継体も、他人とは思えません。(他人・・ですが・・)
現実には、古代の面影は、近隣に残ってはいません。
わずかに、万葉の頃、貴族達が野遊びに興じた。細江の名残が家の前を流れています。
金村、物部、蘇我、藤原・・と、権力の推移があって、先に述べられた中大兄皇子の母、妹、斉名、間人の時代では、大阪城前の難波宮跡地ぐらいでしょう。
わが家の東、河内に出れば、額田大君の名残、額田が 地名として残っています。
越王国については、9年前、福井県丸岡市が 町おこし運動を 盛んに宣伝していまして、その時、継体を少し、調べました。
古墳や 応神記も その時、丸岡町から 送ってもらった物があり、
今、懐かしく読み返しています。
継体の母、振媛は 絶世の美女だったと 載っていました。
「 顔容姝妙 甚だ媺色有る・・・」
顔 きらきら しく はなはだ 麗しき色ある・・・ と。
なんでも、越の卑弥呼 なる 言葉がその時 現れました。
今は亡き 黒岩重吾氏、そして、中山千夏氏、門脇貞二先生、森浩一先生が主になり、運動されていたのを思い出しました。
越前、越中、越後に分かれる以前、AD500年ごろは、越王国がにわかに、脚光を浴びた時代。その仕掛け人は、大伴、物部と言いますから、その時代は少し以前の応神・仁徳の影響がまだ 残っていて、河内・飛鳥の豪族のバランスを崩すため、継体に重い腰をあげさせたのでしょう。
無理な歪は、時代と共に 要所要所で 是正されたのかも?
それが、息長の出典に係ったと思うのですが・・・そして、その意味で、
大海(天武)は、ド・エライ皇だったと 思います。
by 小路千兵衛 (2005-12-14 21:00) 

tenko

いらっしゃいませ~。

>よろさん
 九州王朝説に初めて出合ったのは……うん十年前……(とほほほ)。
 私はそもそもあの時代の権力を「王朝」と呼ぶのはどうか、と思っておりますが、畿内に匹敵する、あるいはそれ以上の勢力が、九州・出雲・越にあったのではないかと思っております。あ、毛野(関東内陸部)にもね。

>小路千兵衛さん
 寒いですねぇ。雪降りましたものねぇ。
 越の振姫は面白そうな人ですね。「子供が養育できないから」って旦那が亡くなったあと越に戻っていったという説話の裏には何かあるんじゃないかなぁって思っています。
 我が家は応神は二人いる説で、息長足媛の息子のほうの応神は越と関係が深いと見ています。気比の神と名前の取り替えっこしてますしね。
 応神と仁徳は、全然、出自が違うんじゃないかな、とか思っていたりもします。仁徳は葛城のバックアップあってのオオキミっぽいですからねぇ。
by tenko (2005-12-20 16:34) 

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