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妲己考 [中国古代史]

妲己(だっき)といえば、悪女の代名詞です。
「封神演義」になると、もう、妖女ですね。
案外この、妖女説、近いような気もするな、という話を家人としておりました。

実際に、殷の最後の王さまの紂王が、妲己におぼれて国政を省みず、酒池肉林でひどいことした、かどうかは大変に疑問である、とみなさまおっしゃいます。
えぇ、滅びた王朝の最後の王さまというのは、たいがい、ワルモノで、だから、滅ぼした側に正義というか大義があるんだ、という展開は、史書を読んでいればたいがい目につくところ。
逆にいいますと、だから、武烈天皇がいろいろと悪事をしちゃったという展開は、つまり、継体天皇による簒奪だと思われるわけですよ。

さて、それでは実際、紂王ってどんな人だったの?という史実に迫るのは容易なことではないのだけれど、妲己に関しては、ひとつ、面白い事象が残ってます。
それはほかならぬ「史記」に書いてあることなので、ここは抜き書きしてみましょう。

まず「殷本紀」から。定本はちくま学芸文庫の「史記」(小竹文夫・小竹武夫訳)とします。

「周の武王は、そこでついに諸侯を率いて紂を伐った。紂もまた兵を発して牧野に防いだが、甲子の日に紂の兵が敗れ、紂は逃げて鹿台に登り、宝玉で飾った着物を着て火に飛び込んで死んだ。周の武王は紂の頭を斬って白旗の上にかけ、妲己を殺し、――(以下略)」

これによると、紂王は自殺して、武王はその頭を斬って、白旗の上にかけたあと、妲己を殺したことになっていますが……。「周本紀」によると。

「紂王は走って引き返し、鹿台の上に登って、珠玉を身につけて自ら火に焼けて死んだ。――(中略)――ついに紂王が死んだ場所へ行き、武王は自ら弓を引いて、三発射ると車を降り、軽呂(けいろ)の剣で屍(しかばね)を撃ち、黄鉞(こうえつ)で紂の頭(こうべ)を斬り、大白の旗の先にかけた。ついで紂王の愛妾二人のところへいくと、二女はくびくくって自殺した。武王はまた三発の矢を放ち、剣で撃ち、玄鉞で斬り、その首を小白の旗に懸けた。――(以下略)」

この周本紀による二人の愛妾の一人が、妲己かどうか、というのが今回のポイントです。
紂王には何人もお妃がいたのだろうと思います。その中でも、特に妲己を寵愛したと言われています。
が、「殷本紀」では妲己は周の武王が自ら殺したことになっている。
「周本紀」で自殺した愛妾二人は、妲己ではないのだろうか、ということになります。
じゃあ、妲己じゃないとしたら、周の武王は、どうしてこの二人の愛妾を、紂王と同じような目にあわせたのか。

死者を鞭打つという言葉がありますが、焼身自殺しても身体が残ってしまうと、のちのち辱めを受けることになります。
紂王の場合、
1.三発の矢を車上から射かける
2.車を降りて、剣で撃つ(これは叩くという意味合いでしょうか)
3.黄鉞(黄色といいますが、これは黄金のようにかな光りしてるんじゃないかと思います。当然、青銅製だろうな)で首を斬る。
4.大白の旗に首を懸ける。
という手順ですね。
で、二人の愛妾はどうかというと、首をくくって自殺しているわけですが、これに対しても
1.三発の矢を放ち
2.剣で撃ち
3.玄鉞(これは黒い鉞ですね)で首を斬り
4.小白の旗に首を懸ける
とあります。
剣の名のあるなしの違い、黄色と黒の鉞の色の違い、白旗の大小の違いはありますが、手順は同じです。
つまり、二人の愛妾は、王と同等の辱めを受けたことになります。

殷の次の周で、西周から東周に遷都し、戦国時代にはいるきっかけとなった幽王という王さまがいます。この人にも、褒姒という笑わないお妃の事例があって、そのお妃を笑わそうといろいろバカなことをやったあげくに滅ぼされたということになっていますが、さてそのあとこのお妃はどうなったかっていうと、幽王を滅ぼした申侯(この人の娘が幽王の正妃だったらしい)が虜にして連れ帰ったと書いてあるんですね。
まぁ、普通、滅ぼされた王さまの愛妾ってのは、そういう扱いでしょう。あるいは自殺したり、首切られたとしても、そのあと、打ち捨てられるのが普通という気がします。
王さまと同じような死後の辱めを受けるという例は、ほかに見ない気がします。

これはどういうことなのか。
まず、この愛妾のうちの一人が妲己だったとしましょう。(いや、妲己でなくてもいいんだけどね。でも、名前が残るということは、どちらにしても有名であったことは間違いないわけだから、妲己でいいと思うわけです)たぶん、もう一人は妲己の姉妹だと思います。
さて、この二人が、紂王と同じような目にあったということは、紂王と同じような悪事をしたということなのか、それとも……。

三発の矢を射かけ、剣で撃ち、鉞(まさかり)で首を斬ってその首を旗に懸ける。

この一連の動作に、呪術的なものを感じるのは、私たちだけでしょうか。
剣は名剣、鉞もそれと知れたもののようです。
当然この剣も鉞も、当時のハイテクたる青銅製の、燦然と輝く武器だったと思います。
青銅製の鉞(えつ)は、殷代のものがいくつも出土していますが、これがまたおどろおどろしい文様なんかがついていて、コメントにも「犠牲の首を斬るためのもの」とあったりします。
鉞で首を斬るというのは、単なる首切りとはちょっと違うようなのですよ。

紂王が行ったとされる酒池肉林。
これは、殷の祭祀に照らして考えると、あながち放埒ではないのかもしれません。
何しろ、殷墟からでてきたおびただしい青銅器の大半は、(まぁそれが墓の副葬品ということもあるけれど)彝器(いき)と呼ばれる祭祀用のものなんですね。
これは、クロキビで作った酒(当時、一番上等だったらしい)をおさめる壺や、これに鬱という草の香りをつけるための壺、さらには酒を温める容器や、酒を注ぐ容器など、酒だけでも何種類もあるのです。
そして、のちに「鼎の軽重を問う」で有名になった、天命を受けた印とされる鼎(てい)と呼ばれる容器、これは三本足の円筒状のものと、四本足の四角い箱型のものがあるんですが、これはどちらも犠牲の肉を煮るための鍋だったことが判明しています。
犠牲の肉を煮るための容器が、天命を意味するとはどういうことか。
つまり、犠牲を捧げることが天の意にかなうということですね。
この犠牲、動物犠牲はもちろんのこと、人身犠牲もたーっぷりあったようです。
周の武王の反乱(あえて反乱といっておこう)にしても、祖父と兄が犠牲にされたからってのが大きいみたいですしね。
殷墟から発掘された卜骨でも、しょっちゅう「羌(きょう)を犠牲にするのは吉か」なんて文字(もちろん、それが甲骨文字です)が見出されるそうですが、殷墟の近くにあって、殷族とはおそらく別の部族だったらしい羌族が、しばしば犠牲になっていたようです。
あるいは戦争に勝ったら、捕虜を犠牲にして天に感謝する、というのも、普通に行われていたようです。
この犠牲というのが、鼎で煮るということで、同時にそこで酒を供するわけですから、それが天に捧げる供物であるとしても、儀式を見守る王および諸侯のあいだで、そのあと饗宴が行われたであろうことは想像するに難くありません。
というか、犠牲の肉を共に食うことで、王に従う諸侯の立場が明確にされるということもあったかもしれない。
あるいは、そういう饗宴に従うということは、王の威徳(この「徳」については、あらためてのちに述べるつもりですが呪術的な意味が強いようです)にひれ伏す意味もあったかもしれません。
そんな犠牲の肉を斬るのは、鉞(えつ)と決まっていたそうです。

周の武王が紂王とその愛妾を、そのあと鼎で煮て天に捧げたかどうかはわかりませんが、その可能性は大だと思います。
というのも、殷の鼎を受け継いだという説があちこちにみられるからですね。
どうもこの、鼎というのは、全部で9個あるらしくて、犠牲の大小によって使う数を変えるらしいんですけど、これがいにしえの代に作られて、代々、天命を奉じる王朝に伝えられたという伝説ができあがったようなのです。
つまり、酒池肉林だったのは、王さまというより、天(神様なのかな? このへんも判断がむずかしいですね)のほうだったようなんですよね~。

さてと、そこで妲己とはなんであったか、ということになります。
紂王にいたるまでの殷の王さまは代々、こうやって天を祀る行為を一手に引き受けていて、だからこその王さまなわけです。
その王さまと同じような目にあわされた妲己というのもまた、この天を祀る祭祀に参加していたのではないか。
いや、妲己がいなければ、そもそもその祭祀は成り立たないぐらい重要な存在だったのではないか。
つまるところ、妲己とは殷の王宮に使える巫女(みこ)のような存在だったのではないか。

なんでここまで解釈が飛躍するかといいますと。

近年、殷墟で、婦好墓という殷代後期のはじめ、ちょうど大量に甲骨文字の刻まれた卜骨が発掘される時代の王さま(武丁といいます)のお妃の墓が発見されたのですね。
幸いに盗掘を免れていたために、ほぼ完璧な形で墓が発見され、おびただしい数の青銅器が出現して、しかもその青銅器に婦好の名前が刻まれていたのだそうです。
殷代に青銅器に文字が刻まれているというのは大変に珍しく、また文字を鋳込んだ青銅器も数少ないので、それは貴重な発見だったわけです。
そして、この婦好というお妃がなんで名前も分かっているかというと、卜骨に彼女がらみの事象がたくさん刻まれていて、特に本人が自ら占いをやったとか、政に関与したとか、あろうことか将軍となって自ら兵を率いて討伐にいったということが分かっているからなんです。
(甲骨文字の刻まれた卜骨というのは、この武丁以降のものしかないんですが、特に武丁時代のものが一番多いらしいです)
つまり、奥方が、巫女で政治にも関与していてしかも将軍だったわけですよ、殷の王さまの。
独立したお墓なんかも作られちゃうわけです。
お墓には殉葬のあともみられ、しかも殉葬者の骨のしたには朱砂がまかれていたという、壮麗なものです。
もしかすると共同統治者である女王にも似た存在だったかもしれません。

中国では一般的に女性が統治者になることを好まず、したがって武則天(唯一の女性の皇帝ですな)もまた、則天武后とあくまで妃として呼ぶ事例が多いぐらいなんですが、古代においてはもう少し女性の地位は高かったようです。
もちろん、すでにお墓の埋葬方法においても男女差が出ていたりはするのですが、それでも、圧倒的に女性の地位が低いというほどではない。
そして、王さまと同じような死後の辱めを受けた女性というのは、王さまに比例する力を持っていたと想像することはできませんか?
その力とは、天を祀る力であり、呪力なわけで、だからこそ怖れられて、後世、悪女の代名詞になったのだとすれば、それはそれで納得がいくような気がします。


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