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妲己考(その2) [中国古代史]

妲己について、いったいこの人は何者だったのか、そこらへんをもうちょっと突き詰めてみたいと思います。
といっても、どこまでも想像にすぎないわけですけどね。

殷王朝の王さまの名前には、十干が含まれる、ということになっています。
この十干というのは、実は十個の太陽らしいんですよ。
王さまの名前は、史記にでてくるんですが、そのあと、殷墟で発掘された甲骨文字にも同じようなものがあって、ほぼ史記にでてくる人物が実在したらしいということになっています。
殷墟の甲骨文字というのは、武丁という、殷代でも後半の王さまからあとに使われているものらしいんですが、先祖の祭祀を細かくやっていて、それをいちいち記録に残しているので、過去の王さまの名前まではっきりわかるんですって。
いや~、まめだったのね~。
17000あまり発掘された甲骨のうち、解読されたのは二割にすぎないそうですが、それでも3400……すごい分量の甲骨に刻まれた記号が、漢字として解読されるというのは、すごいことではないでしょうか。
それはさておき。

史記に書かれた王様の名前を、甲骨文字から判別している名前の対比を含めて、羅列してみます。

天乙(てんいつ)またの名を成湯、湯王、名は履。父は主癸。
外丙、卜辞では卜丙。
中壬、または仲壬。卜辞には登場しない。
太甲。
沃丁。名は絢ともいう。卜辞には登場しない。
太庚。太康ともいう。名は辨ともされる。
小甲。名は高ともされる。
雍己。
太戊。
中丁。卜辞では仲丁とされる。
外壬。卜辞では卜壬とされる。
河亶甲。名は整ともいう。卜辞では戔甲という。
祖乙。名は勝。卜辞では、仲丁の子とされる。
祖辛。
沃甲。開甲ともされる。名は踰ともされる。卜辞では羌甲とされる。
祖丁。卜辞では且丁ともいう。
南庚。南康ともいう。
陽甲。卜辞では象甲とされる。
盤庚。
小辛。名は頌ともいう。
小乙。名は斂ともいう。
武丁。子に祖己、祖庚、祖辛がいて、卜辞ではこの順に即位したことになっているが、史記では祖己は即位していない。
祖庚。名は躍あるいは曜ともいう。
祖甲。名は戴ともいう。
廩辛。あるいは馮辛。名は先ともいう。
庚丁。卜辞では康丁、あるいは康且丁ないし康祖丁とされる。
武乙。卜辞では武且乙、あるいは武祖乙ともされる。
太丁。あるいは文丁。卜辞では文武丁とされる。
帝乙。卜辞では文武帝乙とも。
帝辛。名は受とも。紂王である。

これらの王さまの名前をみていると、なかなか面白いことがわかります。
この名前、河亶甲を除いては基本的に二字です。それ以外に名前があるというケースもあります。それと卜辞では別の呼び名になってることもある。
ともあれ、ある言葉+十干の一つというのが、基本の名前のようです。
で、ある言葉というのは、祖とか太とか沃とか小とか、いくつか重なる言葉があるみたい。

通常は、十干のほうに注目して、殷の王族は実は10のグループからなっており、そこから王さまを出したので、そのグループ名がついたのではないか、と言われております。
でも本当にそうなのかなぁって思ったりもします。
じゃ、どうして、祖という名前のつく王さまが何人もいるんだろう?
十干の場合は、すでにこの時期に干支が制定されてますから、たとえば生日、あるいは王位についた日の十干を名前にするってこともあるかもしれないと思うのです。
十干を頭にした10の氏族がいた、というのは、なんかできすぎな気がするんですね。

で、頭につくほうを、いわゆる姓と考え、その下に十干を表す言葉がきて、名はほかにもある、というふうに考えるとすると、ちょっと面白いことがあるのです。

それは、卜辞でいうところの羌甲という王さまです。
この王さまについての事歴はほとんどなにも伝わっていません。
じゃ、なにが面白いかというと、羌というのは、よく甲骨文字ででてくる名前だからです。
羌族、といいます。今日まで残っている少数民族です。
もともとは中原のあたりにもいっぱいいたらしい、どうも羊を飼っていた種族らしいのです。
羌というのは、羊の下に人と書きますからね。
これが羊の下に女だと、姜でして、この名字の家というのものちのち重要になります。
で、問題は、甲骨文字においてよくこの名前が使われるのは、「生贄として捧げるのに吉か」という内容が多いのです。
生贄すなわち犠牲です。神の意にかなうために、人間や動物を殺してそれを煮て、神に捧げるという祭祀を、殷の王朝はそれはそれは頻繁に行っていたようなのです。
そして、しばしば、人間については「羌」を捧げることが多かったようです。
そんな「羌」の名前がついた王さまがいる……。
羌族出身の王さまだとしたら、自分の族民が犠牲に使われているわけですよね。
これはどういうこったいってのがひとつ。

それとは別にいくつか面白いのは、この姓に相当する文字で、史記の文字と卜辞の文字がちがう場合。
文字のヘンをはずして旁だけが残る場合。あるいは旁だけの文字にヘンをつける場合。
外と卜、仲と中、祖と且という感じ。
これは読みが同じだったために、ちがう漢字が使われたのかもしれないし、そうではないのかもしれません。
が、羌と姜みたいに、羊の部分が同じで読みも同じ「キョウ」だと、もしかすると同族だったりすることもあるかも?

てなあたりから、想像は飛躍します。
妲己も、妲+己で、二つ目は十干のひとつになってます。
だとすると、妲は彼女の姓なのかもしれません。で、女篇がついてますが、女を取ると「旦」になります。
これが彼女の族名かもしれない。
とすると。
もしかして、周公旦というのも、同じ旦族の人間かもしれないのではないか、と。
周公っていうのは、周の武王の弟とされていますが、本当に血族だったのか、かなり疑問が残るのです。
旦は彼の諱だと言われていますが、もし武王と同族ではなかったとしたら、姫姓ではなく旦姓であった可能性もあるかもしれません。
いや、そもそも、周王と周公と並び立つって、どういうことなのよ?と突っ込みたいですよね。
ま、それはともあれ、周公旦がいないと、武王は殷に勝つことができなかったっぽいのです。
で、彼がもしも旦族の族長で、妲己とは同族だったとして。
紂王に加担する一族の女族長っぽい妲己を見限って、周王に寝返ったとしたら……?

紂王の最後、妲己はその妹とともに王宮にあるらしいのですが、なにもしていません。
かといって逃げ出してもいない。紂王に従って戦にでるわけでもないらしい。
これはどういうことだろうと思うわけです。
そのあと、自殺したあとも、武王に呪術で封じ込められるほどの女性です。殷の武丁の奥さんである婦好は自分の土地があり、自分の兵があり、それを率いて戦に従事したと言われています。
妲己もそれぐらいの力はありそうな気がします。(武王のお父さんの文王は、紂王に幽閉されて、土地や家畜を献上して許してもらったという話なのですが、その際、妲己に賄賂を贈って紂王に取りなしてもらったという説があります。単なる愛妾ではなく、相当に有力な存在だったのかもしれないのです)
だとすると、本来なら自分の民を兵として率いて、紂王とともに戦うような存在だったかもしれない。
だけど、周公旦がその民ごと、武王に寝返っちゃったとしたら、妲己には、自ら使える兵がなく、そのために王宮にとどまらざるを得なかった……かもしれない。
でも、紂王と妲己は刺し違えて死んだわけではないのです。紂王は自ら玉を纏い、焼身自殺しています。妲己のほうはそれを聞いて、首をくくったらしい。
このへん、よくわかんないんですけどね。
妲己には妲己の立場があって、紂王の言いなりというわけではないのだけれど、やっぱり紂王に殉じているわけですね。
紂王も、実際には放埒にふけっていたわけではなく、あちこちに討伐にいったり、武王との戦いも一年以上にわたったということですし、かなりがんばっていたらしいんです。
でも、力及ばなかった。
なぜ、天命が、殷の王家から、周の王家に移ってしまったのか。
これはこれで主要な問題なんですが。
周王っていうのは、そーとーな田舎者で、結果として殷の祭祀をそのまま踏襲せざるを得ないという雰囲気なんですが、ではどうやって、殷の祭祀を踏襲したかっていうと、殷の祭祀に通じている者を味方につけるしかないわけです。
それが周公旦だったんじゃないか、という大胆な仮説を出して、さらに周公旦と妲己は同族だったが、旦が妲己を裏切ったのではないか、というこれはもう妄想ですね。
ま、そんなことを考えているわけです。


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