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殷王朝の支配体系 [中国古代史]

『史記』に描かれている夏という王朝は、まだその実態というものが考古学的に証明されていないのですが、殷に関しては殷墟の発掘で、『史記』に記載されている王に相当する名前を刻んだ甲骨卜辞が山のように発見されているので、存在したことは間違いがないわけです。
しかも最近では、たぶん、夏の王朝があっただろうと思われる偃師県二里頭のすぐ近くにできた偃師商城と、鄭州市の鄭州商城が、殷墟より前、二里頭晩期に並行する形で建設されて、どちらも栄えていたらしいことが、考古学の発展で分かってきています。
そのうえ、この偃師商城と鄭州商城は、殷墟が築かれるより前に、ばたっと閉じられてそのまま放棄されてしまい、小双橋ってところに一時的な都らしきものが築かれたようなのですが、これまた殷墟が建設される頃には放棄されているんですね。

つまり

二里頭(夏の遺跡)→→→→放棄
□□□□□□□□□□偃師商城→→→放棄
□□□□□□□□□□鄭州商城→→→放棄
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□小双橋→放棄
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□殷墟→→→→殷末まで。
(□は、空白とみなしてください。よろしく)

という流れらしいですよ?
この二里頭とそのすぐ近くの偃師商城、それに鄭州商城とその近くの小双橋は、いずれも黄河沿岸の地の利のよいところで、鄭州は現在でも河南省の省都です。二里頭はそのちょっと西のあたりで、洛陽よりはずっと東ですね。
この洛陽の近くには、孟津(もうしん)といって、黄河を渡る有名なポイントがあったようですが、殷代にはまだ都城が築かれるってことはなかったようなのです。
ということは、殷の支配は洛陽までは及んでなかったって感じでしょうかね。
もちろん、洛陽よりはるかに西の、現在は西安と呼ばれるあたりに、周の一族が根拠地をおいていて、周が殷の部下だった(周西伯などと呼ばれていたようです)ことから、そこまでは殷の支配範囲だと見なすことも可能です。
が、そのころの周って、半独立国っぽい(だからこそ、力を蓄えて、のちに殷を打倒することができる)ような感じもするので、勢力圏ではあっても支配圏ではなかった可能性があります。

実際、勢力の及ぶ範囲と、支配の及ぶ範囲っていうのは、違うだろうというのが、昨今の意見のようです。
つまり、殷代の青銅器の分布をみますと、かなり広範囲に広がっているので、交易があっただろうことは間違いがないわけです。交易というのは、たいがい、これを渡すからこれをよこせってわけで、このやりとりがうまくいかなければ武力で討伐ってことになります。
たとえば、殷からみて西南のあたり、東夷と呼ばれる山東地方や、淮夷と呼ばれる淮河流域あたりには、殷から人方と呼ばれる地域があって、殷で「方」と呼ぶのは、一応、身内扱い(蛮族じゃないよ、ぐらいの意味ですかね)なんですが、何かっちゃ貢献してこなくなるんで軍隊を送っています。
この地域からは、重要な亀甲が産するので、どうしても欲しいんですが、なかなか入手できないみたいなんですよ。
王権が盛んで威力のあるときは、まとめて300枚とかちゃんと奉献してくるんですが、ちょっと力が弱くなると、たちまち送ってこなくなるみたい。
勢力範囲っていうのは、そういうあたりなんでしょうね。
これが、たとえば南は長江(揚子江)中流域の、いまでいうと武漢市のあたりまで。ここには盤龍城という城址遺跡があって、ここから殷の青銅器とほぼ同じものがでていたりして、また土器の編年もその周辺とは違って完全に殷(二里崗式といいます)のものなのだそうです。いわば、殷の出先機関で、そこには生活様式を殷の中央と同じようにしたがる支配者が住んでいたっぽいのですね。
この地域の南側には著名な銅山がいくつもあって、しかも盤龍城の周辺では銅を加工して青銅を作っていたらしい鋳造跡が見つかっているのです。
しかし、青銅器は作っていない。あくまで、銅に錫や鉛を混ぜて、青銅という合金の形にして、殷の中央に送る二次加工の工場ですね。それがあって、その青銅を殷の中央で青銅器に加工していたようなのですよ。
とすると、重要な物資を集積するための場所に、殷の王族っぽい人間が派遣されていて、そこを管理していた構図なんかがみられます。
が、この盤龍城は、殷墟が作られる前に突然滅びて、放棄されちゃってるんですね。
そのあと、殷の中央から新たに派遣されるってことはなかったみたい。

同様に殷の青銅器が分布している範囲というのは、北は内蒙古自治区まで広がっています。南は山東半島の手前あたりまででしょうか。決して広くはないけれど、それでもかなりの広範囲といえます。
ただ、北というのは、もともと、以前から文明が栄えていて、たぶん、文字も北からやってきたっぽいし、騎馬民族が往来していて、文物の流通も盛んだったようなのです。
殷の王族も、北東方向からやってきたっぽい感じがしますしね。
その北東部分、遼西とか遼東とかいうあたりと、黄河上流域の遼寧とか内蒙古あたり、さらにシルクロードの入り口に相当する青海・甘粛あたりは、新石器時代後半から、文物の行き来が盛んで、一大交易ネットワークができあがっていたようなのです。
しかも銅も青銅も青海・甘粛あたりからやってきたみたいだし、遼寧には甲骨文字に先んじる岩画文字があったという報道もあるし、遼西あたりにはかなり古くから玉工芸の栄えた紅山文化というものがあって、そういう、富の集積を前提とする文明は、北方でもかなり広がっていたようなのです。

そして南方には、稲作で栄えた文明が長江中流域にも下流域にもあったらしい。
そういう地域の中には、殷王朝となんらかの接触があった地域もあるし、単に文物の交換だけをやっている地域もあったようです。
そういうのを、勢力範囲というのかどうかもむずかしい。
そのへんの地域には、すでに城址遺跡がいくつも発見されていて、お墓の埋葬具合とか、副葬品とか、あるいは祭祀のための特殊な場所とか、そういう考古学的発見から、原始国家に相当するものができあがっていたんじゃないかと考えられているけれど、文字資料がない。
だから、文字資料ででてくる春秋から戦国にかけての「楚」国なんてのは、本当に蛮族扱いもいいところなのですが、実際には相当な国力があって、栄えていたようなのですね。
そのあたり、殷王朝の一元的支配なんてのは、机上の空論なわけでして、ただ、文字資料を持っているがために実在が確認できる、というだけのことなんです。

じゃ、実際の殷王朝の支配範囲ってどの程度なのか、それは何から分かるのか、そのあたりはまた、項目を改めたいと思います。


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夜泣爺

初めまして。夜泣爺といいます。

tenkoさん同様、日本の古代史に関して、考察を綴っています。

日本とシュメールとの関係を考察した「シュメール幻想論」や、
現在倭国の成り立ちを書いています。

その研究の過程で、この頁を見つけました。
by 夜泣爺 (2007-03-28 17:56) 

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