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孔子について考える [中国古代史]

このところ、殷・周から春秋へとあれこれ読んでいて、ふと、思ったこと。

孔子は「15にして学に志す」というけれど、その「学」ってなんなの?

当時、郷学という学校制度はあったらしいんです。これは大体において士クラスの若者を教育するものだったらしいです。
当時の身分制度というのは、諸侯・卿・大夫・士という順序で、士の下はもう庶であります。
士というのは、たぶん、土地もちの最下層ですな。
士というから、戦闘できる層であることは間違いないと思います。
当然、この郷学において、射馬と礼儀作法を教わったとは思いますが、果たして、文字を学んだかどうかというのは、実はよくわからないんですね。
というのも、当時、文字というものは、ようやく周王室の独占がとけて、諸侯に広まってはいるものの、文字の著しかたは1に青銅器への鋳造であり、2番目に竹簡に筆書きでありましょう。で、青銅器への鋳造は、これはもう周の技術をもった青銅器鋳造職人でなければできないし、竹簡に筆書きするのは「史」と呼ばれる特定のグループで、これは世襲制だったと思われます。
たとえば、会盟には必ず史が参加しているんですが、この史というのは、会盟に参加する諸侯が連れてくるらしい。この史が参加してなくてはならないのは、盟書を書くまたは刻むために必須だからです。
こういうことをしている、というのは、つまり、諸侯は文字の読みはとにかく書きのほうはできなかったと推定できるわけです。
いわんや、卿・大夫・士においておや、ですな。
いや逆に、諸侯はとにかく、実務官僚である卿以下は文字の読み書き必須であったかもしれませんが。
それで、まぁたとえば郷学で文字の読み書きを教えたとして、孔子はこの郷学で学んだのだろうかというと、かなり否定的なわけです。
まず、彼は父の名前はわかっているけれど、その父と母は「野合」して彼が生まれた、とものの本(なんのことはない、『史記』ですけどね)に書いてあります。
そして、父は彼が生まれてすぐになくなり、孔子は父の墓を知らなかった……つまり、父を祀ることができなかったわけです。
母がなくなった時も、仕方がないので町でもがりをして、あとで父の墓を教えてもらって合葬したというのですから、かなり紆余曲折があったようです。
孔子の父という人、ないしそれより前の人かもしれませんが、孔氏は宋の出身で、『史記』は、そもそも宋の国君になるべき人が家を兄弟に譲って家臣になったというから、それだと卿身分ですよね。まぁ、このへんは眉唾ですが。それに流れ流れて魯の国に居ついた以上は、孔氏の直系の子孫かどうかもわからないわけです。
そして、たとえ孔子の父が宋の大層な家の出身であったとしても、おそらく私生児であり、かつ、父が生後すぐになくなって墓の場所もわからなかったというところから考えて、孔子が父を通じて宋の礼法に通じていたとは思えないわけです。
宋といえば殷の末裔ですから、もし宋の礼法に詳しいとすれば、周より以前の礼法が伝わっている可能性はあるわけですが、実際のところ、孔子が父親からそれを学んだという記録もないし、できたとも思えないわけですね。
そしておそらく母一人子一人の暮らしは豊かではなく、ましてや後ろ楯もない状態で、読み書きを学んだり郷学にいったりするということは、かなりむずかしかったのではないかと思われるわけです。
ましてや煩雑な礼法について、それも夏・殷・周三代の礼法について「知っている」という状態になるということは、一体どんなものなのか?
そもそも礼法について記した書物などというものは、当時、ないわけですよ。
書物といえば当時は竹簡を綴じたものであって、大変に貴重だし、そう簡単に持ち運びどころか目にすることもできなかっただろうと思います。
じゃ、どんな人間が読み書きできて、それまでに蓄積された竹簡に目を通せるかというと、やっぱりそれは「史」だろうなぁと思うわけですよ。

『史記』では、孔子は若いころに「季史」であった、と書いていますが、この「季史」に冠しては、『孟子』の言及から「季吏」だとする説のほうが多いのですが、私は文字通り「季史」すなわち、季氏の史(ふみつかい)だったのではないかと思うんですね。
史であれば、否応なく文字を使えなければならないし、当然読み書きができるし、過去に蓄積された竹簡のたぐいを参照できます。
というか、その手の竹簡の数は決して多くないし、一定の場所に集まっていて、一般の人間が触ることはできないはずです。燃えてしまうと大変だから、耐火構造の建物に厳重にしまっているでしょうからねぇ。
でも、そうした竹簡類に、孔子が通じていたという礼法について書いてあったかというと、これまたけっこう疑問なんですよ。
だって、そういうものに書いてあれば、誰も孔子に訊ねなくても読んだ人がわかるはずでしょう?
孔子に訊ねないとわからないということは、少なくともまとまった形で、その気になったら参照できるというものではないような気がする。
じゃ、どんなものを参照して、孔子は礼法の勉強をしたのだろうということになります。

これについて、相方がはっと気づきました。
「もしかして、青銅器の銘文を読んで、学んだのではないか?」と。
周代の青銅器の銘文には、よく、誰某の祖先が周王の誰某に仕えて功績があり、表彰された。いま、汝も祖先のように周王に仕えて、忠勤に励めよ、云々とあります。こうした銘文を読んでいくと、周代特に前半は国王の権威があまねく諸侯に及ぼされて、諸侯は周王の徳にすがっていたように見えます。ましてや孔子のいた魯の祖先は周公旦ですから、周公旦にまつわる銘文のはいった青銅器があれば(たぶん、あったと思います)そこで周公旦の事跡も学べたはず。
というか、孔子があれほど周公旦周公旦と言うのには、なんらかの理由があるはずなんですね。
なんといっても、孔子は別に魯の君主の家柄ではない。周公旦は彼の祖先ではないのです。
もし彼の祖先が本当に宋侯の家柄ならば、彼のもともとの姓は子姓のはずで、いっぽう、周公旦は周王家と同じなので姫姓です。
どう考えても孔子が、礼の創始者としての周公旦をでっちあげて持ち上げる理由にはなりません。
が、なんらかの形で孔子は、周公旦という人物にものすごい感銘を受けていて、周公旦こそが周の礼法を制定し、天下にあまねく普及させたとのだという妄想(あえて妄想といいます)にふけるようになります。
これは彼が、周公旦の事跡についての銘文を読んだのではないか、というのが、こちらの妄想というわけ。
えぇ、ただの妄想なんですよ。


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