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丹波王国論 [問題提起]

門脇禎二氏によって提示されているこの論は、まぁ、王国というと非常に語弊はあるかもしれないけれど、丹波にひとつの大きな勢力があって、それがまとまって独立的に存在していた可能性を示唆しています。
「王」という言葉も「国」という言葉も、古代においては慎重に扱わないといけないものなので、一気に「王国」と呼んでしまうとすごく威圧感があるんですが。
私はかなり遅い時期(少なくとも飛鳥朝ぐらいまでは)まで、大和王朝の支配圏はすごい狭かったんじゃないかと思っています。
いや、そもそも、そのころの天皇位は、ちょうど自民党政権の党首のように、グループ持ち回りで継がれていたのではないかと疑ってさえいます。
これに注目しているのは、書記の中でたびたび引かれている中国の史書の一文のもとを読んで、その意味から比定するということをはじめてからですね。
一見、するりと皇位継承されているような天皇の所信表明文が、おおもとをたどると簒奪者の言葉そのままだったりね。
そうなると、血のつながりで継承されているようにみえても、その実は……ということになりそうなのですが、そのあたりはまだ想像の範囲内なので、とりあえず、おいておきます。

まぁ、そういうわけで、大和の飛鳥の地にあった天皇を中心とするグループは、「日本国」と呼ばれるほど大きな支配権はもっていなかった、せいぜい、豪族の首長の自分の権力範囲+その首長を天皇といただくいくつかの首長のグループの勢力範囲をあわせた程度ではないか、と考えているわけです。
しかも、その「天皇」という存在を選ぶ機構が働いたのは、日本列島を支配するためではなく、朝鮮半島南の加羅(伽耶)を再び奪回するためだったんじゃないか、とも思っているのです。
そのために、朝鮮半島から亡命してきた貴族と、在来の(それとてももとをたどればあちらから渡ってきたと思いますが)豪族とが、持ち回りで天皇位につき、なんとか半島勢力を盛り返そうしていた、その拠点が任那だったんじゃないかと思っているわけです。

そうなると、日本書紀の中で、あきらかに朝鮮半島からきた王族として描写されている天日槍(あめのひぼこ)ないしツヌガアラシトに、どうしても注目したくなります。
これがまた、異説がいくつもあって、わかりづらい存在なんですが。
結局、この新羅王子と自ら名乗った存在(と、日本書紀で認められている)は、丹波、但馬、そして越にかけて、自領を展開するようなのですね。
しかも時の天皇からは、播磨と淡路を提供されたのに、それを断っている。
つまり、瀬戸内海ルートではなく、日本海ルートな人なのです。
そして、但馬の女や丹波の女と婚姻関係を結んで、その後の一族を経営している。
瀬戸内海の要所である播磨や淡路を断ってまで、丹波や但馬に固執したのは、そのあたりが大変に魅力的かつ栄えていたからではないか、と推測しているわけです。
ここへ、丹波王国論が重なると、何かがみえてくるんじゃないかしら。

実は丹波については、別に考古学的観点から興味をもっていました。
というのも、この地域には女王の墓とおぼしき古墳がいくつも発見されているというのです。
そして、丹波大宮の名前の由来となる、大宮売(おおみやめ)神社というのが、とても古くて、この地域の中心だったそうなのですね。
この大宮売とは、丹波女王の呼称だったんじゃないかなぁとも思えるのです。

そして、この丹波という土地に注目するもうひとつのポイントは、当然のことながら、ここが出雲に近いということです。
土師について考える時には、野見宿禰(のみのすくね)をはずすことはできません。
というか、この人が土師の祖だとされているんですね。
そして、垂仁天皇の項で、彼は当摩蹴速(たぎまのけはや)と呼ばれる力士と戦うために呼び寄せられて、そのまま朝廷に仕えたという記事がでてきますが、この記事を囲む前後は、狭穂姫とその兄狭穂彦の反乱のいきさつと、狭穂姫が死に際して皇后に推した氷葉酢媛姉妹の入内に関する記事なんですね。
二つのつながる記事の間に挟まれた一見関係なさそうな記事いうのは、実は関係がある、というのが「春秋の筆法」でして、そうなると、この出雲の野見宿禰が、日子坐王(狭穂姫の父、この人についてはまた、別項をたてる予定です)と、丹波道主王(氷葉酢媛の父で、日子坐王の子ということになっている)がらみの、垂仁天皇の後宮にまつわる話と関係あることになります。
つまるところは、野見宿禰と丹波の関係が示唆されている、というのは、かなりの飛躍だとは自覚しているんですけどね。
もう少しこのあたりをつっこんで調べて、ミッシングリンクがないか、探してみたいなぁ、と思っているので、丹波に注目しているんですよ。

相変わらず、間人がらみ。 [問題提起]

ずっと気になってる二人の間人。
この二人を結ぶミッシングリンクがみえてきたので、吉備嶋皇祖母(きびのしまのすめみおや)という存在にも注目しています。
蘇我の嶋の宮に、もう一人の「嶋のすめみおや」と一緒にいた、皇極天皇の母であるという人。
この人は不思議と、日本書紀のなかで記述が多いわけです。
さりげなくでてくる名前は、けっして偶然書かれたものではないはず。
しかも、この人が二人の間人をつなぐ存在だとするなら、ずばり彼女は穴穂部間人と田目皇子のあいだに生まれたとされる佐富女王なのではないでしょうか。
彼女が嫁いだ相手がチヌ王なら、流れはつながるわけです。
ま、そのへんは、語られていないので、あくまで推測の範囲内であるし、正しいかどうかの決め手もないわけですけどね。
そんなふうに考える理由は、やはり、喪をつかさどった土師娑婆連猪手(はじのさばのむらじいて)でして、そもそも皇族や有力豪族でもないのに、葬送にかかわった存在として二度も書記に姿をあらわしていることが尋常ではない。
そのもう一人の殯の相手は来目皇子で、これは穴穂部間人の息子なのですね。
もちろん、土師というのは葬送を司るグループなので、これが葬送にかかわること自体は、けっして不思議なことでもなんでもないのですが。
ほかに、殯やしのびごとがらみで、名前がでてくる人物たちと、この猪手とは、政治的な重要度がまるでちがっているので、わざわざ猪手の名前が単独ででてくるのは、あまりにもおかしい気がするのですよ。
だとすると、来目の時には穴穂部間人が送り、吉備嶋皇祖母の時には皇極が送った、この猪手という存在は、送り手同士の関係を示唆するための、書記の書き手の「春秋の筆法」なんじゃないかと思うわけでした。
本当は血のつながりがあるのに、書記ではあからさまに書けないことを、なんとかばれないように示唆してるんじゃないかと。
まぁ、間人という名前であまりにもあからさまな気がするのにもかかわらず、二人の間人のあいだに血のつながりがあるように書かれていないということ、それ自体がすでに謎なわけですけど。
猪手の存在によって、わざと書かれていないのだ、と思わせるわけです。

そうなるとますます気になるのが、穴穂部間人の存在。
彼女が一時期、蘇我物部戦争の禍を避けて、丹後半島にうつっていたために、中央に戻るときに、世話になった土地に「間人」の名をあたえたところ、土地のものはそのまま「はしひと」と読むのを避けて「たいざ」と読んだ、という伝承が、丹後半島間人にはあります。
この「たいざ」とは「退座」という意味であり、つまり「座を退く」ということなのだけど、この「座」っていうのはなにで「退」とはなんなのか、というところに、ずっとひっかかっています。
素直に読んだら、「玉座から退いた」という意味ではないのかしら。
つまり、穴穂部間人は一時期、天皇だったんじゃないかしら。いわゆる、中天皇(なかつすめらみこと=天皇の空位を避けるために、次の天皇が決まるまでのあいだ、一時的に皇后またはそれに近しい女性が天皇の座につく)だったとしても、とりあえず、天皇という存在でないと「座」という言葉をわざわざ使ったりはしない気がするんですね。

そうなると、彼女がそもそも禍を避けて住んでいたという丹後半島が気になってくる……ということで、問題定期は続きます。

土師娑婆連猪手~二人の間人を結ぶ存在 [問題提起]

穴穂部間人(用明皇后)と、間人(孝徳皇后)、この二人の間人には何か血縁関係があるのではないか、というのが、そもそもの出発点であった。

私(と私の夫)は、従来言われているように、天皇の子女たちの名前が、養育者由来であるとは信じていない。
むしろ、名前が冠するものは、その本人の所領ないし経済由来物件と何らかの関係がある、と思っている。

それで、謎の「はしひと」である。
間の人という、大変に意味深な言葉に、「愛(は)しき人」なのかなんなのか「はしひと」という読み仮名が振られている人名である。
これが、皇后として二名、存在する。
この関連性を追究したいわけだ。

というか、この二名に関連性がない、ということのほうがおかしい、と思うわけだ。
もし名前の由来が養育者であるとするならば、この二名は同じ養育者によって育てられていなければいけないが、そういう話はどこにもでてこない。
はなっから、聖徳太子の母親である穴穂部間人と、皇極天皇の娘であり孝徳天皇の妻であり、中大兄たる天智と何やらあったかなかったか判明しない間人とは、全然別人(いや、もちろん別の人であることは間違いないが)で、関係皆無というのが、従来の見解であった、と思う。

本当にそうなのか?
この二人をめぐるミッシングリンクに登場する土師娑婆連猪手はじのさばのむらじいて)を通して、二人の関連性を探ってみよう。

土師娑婆連猪手が最初に登場するのは、推古天皇十一年、百済を救済するために派遣した来目皇子が筑紫において死ぬ。そして周芳(周防)の国の娑婆(佐波)で殯をすることになる。
この殯のために中央から派遣されるのが、土師連猪手であり、このゆえに、猪手の子孫は娑婆連を名乗ることになる、というのだ。

佐波(娑婆)

次に登場するのは皇極二年九月。舒明天皇を押坂陵に葬ったあと、皇極天皇の母親である吉備嶋皇祖母(きびのしまのすめみおや)が亡くなる。このとき、「土師娑婆連猪手に勅して、皇祖母命(すめみおやのみこと)の喪(みも)を視(み)しむ」とある。

前者は殯であり、後者は喪なので、微妙に行事が違うということはあるが、葬儀にまつわることにかわりはない。
前者と後者の間には35年の年月が流れている。
この二つの葬送に一人の人間が携わっているのだ。
かたや、穴穂部間人の息子の葬儀。
かたや、間人の祖母の葬儀。
ミッシングリンクは来目皇子と吉備嶋皇祖母の間に、ある。

そもそもなぜ、土師娑婆連猪手という人物が、この二人の人物の葬儀に関わったことを、特に記さねばならなかったか、ということなのである。
たしかに土師氏は葬送儀礼をつかさどる氏族であり、彼に殯や喪(みも)を担当させるのは、ある意味当たり前のことかもしれない。
だが、問題は、それ以外の人物に特に殯や喪(みも)で土師娑婆連猪手という個人名を指定して司らせたという記述がないのに、なぜか、二人の間人に関わる来目皇子と吉備嶋皇祖母のみ、わざわざ記述しているということなのだ。

そこで古事記の記述を見ると、穴穂部間人は、埿(はつかし)部穴穂部皇女とある。
この埿(はつかし)という字は、泥の異体字であり、「どろ」と読む。
泥部・埿部とは「はつかしのとものみやつこ」と読み、令制では宮内省の土工司に所属するが、もともと土師(はじ)との関連は一目瞭然だろう。
また、はつかし(羽束師)という地名があることも、考慮にいれておくべきかもしれない。(山城国乙訓郡にあったらしい)
土師(はじ)とは、「はにし」という言葉が変化した語であって、埴輪などの土器を作ることをつかさどった人であるが、律令制では諸陵司の伴部となっている。
これをまた「土師人(はしうど)」とも呼ぶ。
間人(はしひと)との関連性はいうまでもない。
もっとも土師が貴人の葬送を司ったのは、律令制にはいってからではなく、すでにこの時代に明らかであり、むしろ埴輪を作るというその本質からみて、土器生成よりも葬送儀礼に携わることのほうが本義であるかもしれない。
とすると、土師部の下に実際に土器生成に携わる泥部がいて、これが律令下においては、葬送関係と土木工事方面とに完全分離したのかもしれない。
それはさておき、このように考えると、「間人」という名前は、土師部の存在を暗示していることになる。

この土師部の存在とは、正式な意味において土師部の統率を意味するのではないか、と私見している。
ただし土師というのは凶礼に携わるがゆえに、その名を忌むということがあり、後世、土師氏の改姓(菅原氏や秋篠氏など)ということも行われているので、その名を表に出すことは忌まれた可能性がある。
間人とは、すなわち葬送において、死者をこの世からあの世へ送るための橋渡しをする儀礼に携わる人間を意味するのではないか、などという想像の飛躍もまた楽しい。

そして、この土師娑婆連猪手が葬礼に関わる二人の人物、来目皇子と吉備嶋皇祖母は、実は血縁関係にあるのではないか。
もっと言ってしまうと、吉備嶋皇祖母は来目皇子の実の娘なのではないか。
しかし何か憚ることがあって、この二人の血縁関係を表沙汰にすることができなかったので、日本書紀の編者は、わざと葬礼に関わる一人の人物をフルネームで挿入したのではないか。
見る人が見れば、その関係性が明らかであるように。
それが春秋の筆法なのではないかと思う今日このごろ。

もしもそうだとすると、穴穂辺間人は、間人の祖母のまた祖母になるわけで……それなら、「間人=土師人」というなんらかの力(それが土師を統べる力なのか、はたまた葬礼にかかわる何かの呪力なのか分からないけれど)が受け継がれている可能性があるんじゃないか、と思われるわけである。

ちなみに、来目皇子の「来目」というのを地名の「くめ」と考えた場合、もちろん飛鳥に来目があるのだけれど、私は岡山すなわち吉備の久米も関係あるんじゃないかなぁと思うわけだ。
この吉備の久米を背景にした財力が来目皇子にあるとして、その財力基盤である吉備の在来勢力との婚姻によって、吉備の媛が生れる。それがやがては吉備嶋皇祖母になるのではないか、と想像することはできなくはない。
その場合、想定されている厩戸や来目の年齢よりも、ずっと年配である必要はあるが、そもそも彼らの生年月日って、まったくはっきりしていないのでね。

もうひとつ。
もしかすると、来目皇子は厩戸皇子より年上で、彼のほうが穴穂辺間人の長男であった可能性もあるかも。
厩戸は用明が愛でて「上宮(かみつみや)」にて養育した、と言われているが、それはすなわち母方に疎まれたということで(当時は母方で養育するのが当たり前だから)、そういう意味でもちょっと変な存在ではある。
一方、推古記の冒頭部分の、来目皇子の戦死にまつわるあたり、「すめらみこと」が実は穴穂辺間人であったならば(その可能性はけっこうあるかも、と最近思っている)、その長子たる来目皇子は実はもっと重要な人物であって、(だからこそ半島に送る戦力を率いる将軍として行動できるわけだ)しかし厩戸→山背大兄と続く血統が途絶えたことになっている書記編纂期に、実は厩戸の兄弟の血筋が連綿と続いていると暴露するのはまずかったのかも……なんて穿った見方をしてみたりして。

いずれにしてもなんでこんなに間人にこだわるかっていうと、穴穂辺間人も間人も、一時期、「すめらみこと」か「なかつすめらみこと」的な存在だったんじゃないだろうか、という疑問があるからだ。
というか彼女たちの呪力がなければ、用明も孝徳も「すめらみこと」になれなかったんじゃないか、というべきかな。
つまり、歴史の背景に女あり、ですよ。


『プロジェクト・スメラミコト』 [問題提起]

1.提唱者
 伽耶(任那)の風前の灯火の支配層

2.黒幕
 百済

3.初期実行者
 大伴金村

 このプロジェクトは、風前の灯火の伽耶を再興するために、倭(やまと)の兵力を糾合するものである。
 もともと半島勢力が倭の兵力を認識させられたのは、息長足媛(おきながたらしひめ・神功皇后)の強引な乱入であった。
 その後、越の勢力(もともと、息長足媛の背景は越と思われる)が、何回か半島へ押しかけているが、たいしたことはなかった。
 ところが、各勢力持ち回りで緩く束ねられていた海人(あま)の総帥に、強引にライヴァルをぶち殺して大権力をぶちとった大泊瀬幼武(おおはせわかたけ・雄略)がつくと、到底、無視しえない兵力を半島になだれこませるようになった。
 雄略の王国は一代で瓦解したと思われるが、倭の海人を糾合できればかなりの戦力になると半島側が認識したのは間違いあるまい。
 ならば、自分たちに都合のいい権力を倭にうちたて、大兵力を味方につけることができれば、伽耶も再興できるし、百済も安泰、と思ったのではないか。
 かといっていまから大兵力を送り込んで、倭を制圧して、雄略のような新たなオオキミをたてるだけの力は、伽耶はもとより百済にもない。
 そこで、彼らが考えたのが、プロジェクト・スメラミコトである。

 スメラミコトとは、「ミコト」を「統べる者」の意味ではないかと思われる。
 ミコトとは「御言葉(みことば)」であり、神や権力者の命令を意味し、はては命令をする神や権力者その人の尊称ともなったのであろう。
 ミコトは、キミと違って自前の権力を必ずしも持つものではなく、他者に命令する権能を持つことによって保たれる「ミコシ」のような存在ではなかったかと思われる。
 それらを統合するひとつ上の位、それが「スメラミコト」なのではないか。
 
 これに乗ったのが、雄略朝の末期から実力者として政治を仕切り、半島、特に百済と脈を通じていた大伴金村である。

第一段階「継体推戴」
 九州は大伴氏の勢力の範囲外だったと思われるので、もっとも半島に力を及ぼしやすい越の王を「スメラミコト」として、権力を持たせようとした。
 そうやって選ばれたのがオホド王(継体)である。
 金村の後押しを受けたオホドに、倭の勢力はある程度協力したと思われる。
 その代表格が近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)で、彼が将軍になって何度か新羅に出兵している。
 しかしたいして戦果はあがらず、親新羅と思われる筑紫王磐井(つくしおう・いわい)と毛野臣の間で戦争になり、大伴金村は物部アラカヒを筑紫に遣わし、磐井を撃破する。
 そこで毛野臣は首尾よく半島に渡ることができたが、いざ半島に到着してみると勝手気ままに権力を振るい、伽耶(任那)の貴族の総スカンを食い、あげく、百済・新羅と同時に戦闘するという無茶苦茶な事態に陥った挙げ句、打ち破られて逃走中に死亡する羽目になった。
 かくして、プロジェクト・スメラミコト第一段階は散々たる失敗に終わったのであった。

(以下続く)


二人の間人 [問題提起]

間人と書いて「はしひと」と読みます。
間の人で、はしひと。
はぁ?って感じですよね。
どうしてそう読むかの説明もない。

日本古代史には二人の間人が登場します。
一人は「穴穂部間人皇女」で、用明天皇の皇后であり、厩戸皇子の母と言われている人です。
もう一人は「間人皇女」で、こちらは皇極斉明天皇の娘であり、孝徳天皇の皇后となった人です。

この二人には血縁関係はない、ように書かれています。それなりのに同じ間人という名前を持っているのはなぜだろう?
ずいぶん前から疑問に思っていました。

なんとなく、間人って、「神と人の間を取り持つ」という意味で、巫女的な命名なのかなって印象がまずあって。
でも、二人の間人に関しては、ほとんどそれらしい記述がないですよね。
どちらもなんか、運命に翻弄されている存在の薄い女性っぽい記述がなされている。

穴穂部間人は、用明の皇后となり、厩戸と来目ともう一人ぐらい皇子を産んだけど、用明が亡くなったあとは、用明の最初の子である田目皇子と再婚した、(そして佐富王女を産んだ)という説があるようです。
間人は孝徳の皇后となって難波にいったけれど、兄である中大兄が「孝徳見捨てて近江にいこうぜ」って言って、母である宝皇女(当時は皇極天皇を退いて、いわゆる皇祖親(すめみおや)だった)とともに飛鳥に去ってしまいます。で、孝徳が、「くびきをつけて馬を飼っていたのに、その馬をとられてしまったよ」という嘆きの歌を送るわけですね。そして一説によると、中大兄と関係していたらしい(さすがに同母兄妹なので、書記ではほのめかすにとどまっております)。
夫と兄の間で引き裂かれる悲劇の女性としては、佐保姫という存在がありますが、あれもなんだか兄との間に「できてる」印象がありますが。
いずれにしても、自分からあれこれするのではなく、他人の思惑でひきずりまわされる印象の女性たち、それが間人という存在に見えた、のです。

が。

間人はやがて亡くなり、斉明として重祚した母親宝皇女と合葬されるんですが、そのときに、その陵の前っかわに、大田皇女が同じく埋葬されるんです。
大田皇女というのは、中大兄の娘で、母親は蘇我倉山田石川麻呂の娘越智娘(をちのいらつめ)といいます。
大海人皇子の妻となり、大伯(おおく)皇女を産んだとされてます。
でも、どうして、間人とその母親と一緒に埋葬されたんでしょう。
合葬ではないにしても、葬礼記事が同時に載り、わざわざ「陵の前の墓に葬す」と書いているんです。

気になって、あれこれ、合葬記事を探してしまいました。
そうしたら、夫婦の合葬、親子(しかも母と子)の合葬はあるんですが、孫とか姪とかを一緒に葬った(わざわざ埋葬し直したっぽいんですよね)という事例は見当たらないんですよね。
探したりないだけかもしれないけど。
だからもし大田皇女を合葬なり誰かとあわせて葬るとしたら、本来、越智娘系列とあわせて葬るべきであって、祖母と叔母の横にわざわざ葬りました、と記述をするのは、ちょっと変かな、と。
それで考えると、母娘の合葬墓のその前に葬られた大田皇女は、間人の娘と考えるのが、一番合点がいくんですけど……。
(うちの夫は、むしろ、大田皇女は宝皇女の娘なんじゃないか、と言ってます……年代的にはそちらのほうがあっている……のかな?)

閑話休題。

間人(はしひと)のことを調べようと思ってインターネットで検索かけたら、でてくるでてくる蟹またた蟹……「たいざがに」という丹後半島の名物。
なぜ? と思ったら、間人と書いて「たいざ」と読む地名があるのだそうです。
で、なんで「たいざ」っていうかっていうと、むかし、穴穂部間人皇后が、一時期、難を避けて、生地であるその地(丹後半島の突端である)に避難していたので、「たいざ」と申し上げる、とあります。
「たいざ」って……「退座」ですか?
難というと、穴穂部皇子をめぐるゴタゴタっすか?
それとも崇峻天皇暗殺っすか?
はたまた……?
そして、「退座」という言葉が意味深で、なんとなく「天皇の座を退いた」というように読めるのは、うがちすぎ、でしょうか?
すごく気になる。
もしかして、穴穂部間人は、ある時期、天皇(すめらみこと)だったことがあるんじゃないのか?
そうでなくても、彼女の存在は、実はすごく重要であって、彼女との婚姻がなければ用明は天皇になれなかったとか、彼女の息子だから厩戸は皇太子だったとか。

推古天皇の冒頭部分は、とても変な感じなのです。
推古が即位して、厩戸が皇太子に決まる。そのあいだの文章に、何もないんですよ。
一応、厩戸は推古の女婿ってことになってます。(一応、といわせていただく)
でもそれだとしたら、「推古には、夫の敏達との間に竹田皇子がいたけれど、これが亡くなってしまって~、そのあとに残った皇太子候補に誰と誰がいて~、あれこれ悩んだけど、厩戸を選びました」の一言があってもしかるべき、だと思う。
いやまぁ、この時代に本当に「皇太子」という存在があったかどうかは別にして(ほかに、「大兄」という存在があって、これがかなり重要そうなので)、少なくとも当時の厩戸にはほかにたくさんのライバルがいたはずなのに、まったく言及されずにすんなり皇太子になっているのは、異様な感じなのです。

が、もし、推古冒頭部分、推古でなく穴穂部間人が天皇になっていたとしたら、厩戸が皇太子というのは、流れとしてごく当然というか、おかしくないんですね。厩戸は穴穂部間人の長男だから。
もしかして、36年に及ぶとされている推古の治世は、前半は穴穂部間人が天皇だったんじゃないか、と疑いだしたのは、これが原因であります。
そう考えると、推古期の厩戸の実績に関する記述も、またその目で見直してみる必要がある。

さて一方、宝の娘の間人ですが、この人もまた、重要な存在だったんじゃないかと思います。
孝徳は間人を嫁にしないと、天皇になれなかったのかもしれない。そういう存在と考えると、重要さも浮き彫りにされるでしょう。
で、天智との間に生れた娘は天武の最初の妻となっている。
(実は天智・天武・間人は、まったくもって、血のつながった兄弟じゃないってのが、我が家の考えです)
なにより。
天智は、間人が死ぬまで、天皇になれなかったんですよ。
ここがポイント。

しかし、長くなってしまいました。
問題提起だけして、ひとまず、筆をおくことにします。
二人の間人に関しては、土師娑婆連猪手の殯をめぐる章で、改めて。


さきたま古墳群稲荷山古墳出土鉄剣銘文についての疑問 [問題提起]

題名がいやに長くなっちゃいましたが、基本的な疑問というのは、なぜ「ワカタケル大王」が雄略だって、そうも断定しちゃうかってことなんです。

鉄剣に刻まれた文字は115文字、欠損なしで、ほぼ全文読みくだせるという、大変に画期的な発見であったことは理解できます。
これで隅田八幡宮の鏡の銘文もわかるよ~、とか、いいたいのもわからなくはない。
でもですよ。
「獲加多支齒大王寺、在斯鬼宮時」
前半がワカタケル大王でもいいです。「寺」に関しては、これを動詞と読むのか、それともいわゆる寺院としての「てら」として名詞で読むのかわかりませんが、とりあえず棚上げしましょう。
でも、そのあとは、「しきのみやにあるとき」ですよね。まぁ、「寺」というのを、「役所」という意味にとって、「ワカタケル王の役所が『しき』の宮にあるとき」と読んでもいいと思います。
問題はですね、雄略天皇の宮が、「しき(磯城)」にあったことがないってことなんです。
(まぁそのせいで、この「しきのみや」を重視する人は、欽明天皇なんじゃないかーとかいってますが。でもそれは少数なんだなー)

いや、そもそもこういう銘文をもった鉄剣がでてきたから、この時代(銘文の「辛亥」は471年に比定されているので、五世紀後半)に関東は畿内の大王権に服属していた、という結論も、待ったをかけたいものです。
なんかねぇ、そもそも大王権ってなんなのよって部分が明確にされないままに、とにかく畿内に王朝があって、そこがどんどこほかの地方を支配していった、というのが当たり前な感覚になっているのは、どうにかして欲しいんだな。
天皇は天皇家の血をひいてるから、だから天皇なんだーっていう発想そのものを、根本的に改めて欲しいですね。少なくとも学問的には。
そうなってはじめて、どうしてこの国を支配していったのか、支配といいつつ、その実態はどういうものなのか、はたまたそもそも支配なんてしていたの? といったあたりまで、突っこんで議論もできるというものです。

磯城、という土地に関しては、大変に注目しております。
欠史八代とかいって、一括りにされちゃってる、綏靖から開化までの天皇さんたちのうち、かなりの人たちが磯城と縁組しています。
そして磯城とは、三輪山の裾。大物主を祀る地域なわけですな。
ここに宮を作るってことは、大物主と手打ちができてるってことでしょうね、きっと。
まぁ、だからといって、「斯鬼宮」が、磯城の宮かどうかも、分からないとは思うんですけど。

このへんで、ちょっと大胆な仮説を出してみよーかと思います。
古墳時代後半、大規模な古墳が作られる時代、そう、5世紀後半から6世紀にかけて、群馬は高崎あたりに、巨大古墳がいくつも作られています。
この近くに、豪族の館あとが発見されています。これが上毛(かみつけぬ)の君の館かどうかは分かりませんけどね。
このへんに大王がいたっていいじゃないか、というのが私の意見です。
え? 大王は畿内にいただろうって?
そんなことないですよ。越あたりで大王を名乗っていた人がいるようですから。
まぁ、大王=おおきみ、で、おおきみは「きみ」の大きいものだって考えたら、「かみつけぬのきみ」が自ら「おおきみ」と名乗っても別に問題はないわけですよ。
ヤマト以外は「おおきみ」と名乗っちゃいけない、という命令が徹底でもしていれば別ですけど。
たぶん、きっと、かなりの確率で、全然、徹底なんかできてなかった、と思いますね。
だとしたら、あのへんに大王がいて、稲荷山古墳に葬られている人は、そこに服属していたかもしれないわけですよ。
いや、そうでなくっちゃいけない理由は別にないんだけど。

なんでこんなこと考えているかっていうと、ひとつには、5世紀後半に、畿内の大王権が本当に関東まで徹底していたか、ということ。
もうひとつは、上毛の勢力というのは、実はすごくでかかったんじゃないか、ということ。
当然のことながら記紀は畿内中心に描いていますから、地方勢力というのは、常に敵対勢力なわけでして、それがぶつかると、何かしらの記事となってきます。
でも、上毛って、実はほとんど記事がないんですよね。
ぶつかってない。
ぶつかってないからおとなしく服属しただろう、という考えもひとつはあると思うけれど。
記事がないってことは、実は記紀の時代にはそこまで勢力が及んでなかったんじゃないかな、という判断もできるわけです。

それというのもですねぇ。
縄文時代における貝塚の分布ってのは、関東地方に集中しているわけでして。
稲作がはいってくる前、もっとも豊かだったのは、関東地方だったと思うんです。
そればかりじゃなく、北は青森から南は九州南端まで、いくつも大きな遺跡がでているのに、畿内には縄文時代の遺跡が本当に少ないんですよね。
どうもあまり、豊かな場所ではなかったらしい。
それほど豊かではない場所に、弥生時代になって、ようやく入り込んだ勢力が、そこで「おれたちはこの国の中心だ」といったところで、まわりは聞くんでしょうか?
なるほど彼らは大きな古墳を早々と作る力をもっていたかもしれない。
でもそうした力は、すぐに各地に波及します。
瀬戸内海の交通をおさえて、半島の先進的な文化をいち早く入手できたかもしれない。
でも、じゃあ、そうした文化の一端をおすそ分けしてもらえるように、畿内政権に向かって頭をさげたか、というと、そんなことはないんじゃないの、といいたくなるわけです。
なぜなら上毛地域の勢力は、そもそも縄文時代の豊かな場所より、ずっとずっと奥まった地域にいるわけです。高崎と前橋付近ですからね。
ここが、古墳時代に関東でもっとも栄えた地域、言い換えると、縄文から弥生にかけての地域とは別の部分に入り込んでいるわけです。
(実は畿内と同じようなことがおきているわけですな)
九州方面は縄文から弥生へ、弥生から古墳時代へと、遺跡がつながっているケースが多いようですが、畿内は弥生になってから忽然とあらわれ、関東では縄文時代とは別勢力が別の地域にあらわれている。
つまりは、外来勢力ですよね。

そして関東におけるこれら外来勢力はどこからきたかっていうと、越から諏訪を抜けるルートなんじゃないかと思います。
糸魚川から松本への『塩の道』、ここを支配していた安曇氏は海洋民族です。
しかも糸魚川周辺は古代からヒスイの産地として有名で、そのヒスイ加工品は、日本海沿岸の各遺跡をはじめとして、かなり遠方まで運ばれています。
黒曜石の伝播ルートも確立していましたしね。
そうなると、この上毛勢力は、越へ抜けるルートを確保していて、越から半島への航海ルートも当然確保していた、と思われるわけです。
つまり、畿内を経由しなくても、半島の文化を吸収することは可能だったんじゃないか、といいたいわけですね。
だとしたら、畿内とぶつからない限りにおいては、わざわざ服属する理由もなさそうに思えるんです。

そもそも畿内の大王権力というのは、いったいどんな基盤に成り立っていたのか、というのが、ほんっとーに分からないんですよ。
アマテラスだ、天孫族だ、高天ヶ原だ、という神話世界は、なるほど彼らがよってたつ基盤ではあったかもしれないけれど、それが他者の、よその地方の人々に対してまで、効力をもっていたかというと、かなり疑問なわけですね。
壬申の乱の時の地方の動きをみても、大海人に従ったのは美濃尾張まで。越や上毛は(大海人が近江側の使者をうまくおさえたという説もあるけど)無関係。
吉備も九州も「知~らないっ」とばかりにほっかむりしていて、完全に畿内+美濃尾張だけの戦いになってます。
あの状態で、畿内勢力が全国を支配していた、とは到底いえないと思う。
それより一世紀も前の話です。
どう考えても、関東地方まで、畿内政権が及んでいたとは思えないんですね。

もちろん、さきたま古墳群にからんだ人々が、畿内から移住してきた連中で、それでわざわざ畿内まで奉仕活動にいって、鉄剣もらって帰ってきた、という推理は成り立つと思います。
ヲワケのオミの祖であるオホビコってのが、考元天皇の長男で、四道将軍の一人に任じられた大彦命だという説もありまして。
「臣(オミ)」というカバネを名乗っているからには、それは畿内勢力からくだされたものではないか、との意見もあるわけですが。
いやまぁ、「オミ」とか「スクネ」とかに関しても、いろいろと言いたいことはあるんですが、それはとりあえずおいといて。

ほんと、天皇の権力の基盤って、なんなんでしょうねぇ。
天皇家が祀っている神様ってのは、実は海由来なんだよ~、という話には、けっこう目からうろこでした。
つまり、全国から寄せられる「神饌」の具というのは、海産物が多いということです。
これはびっくり。
神様は、鮑とか鯛とか若布とかがお好きらしい。
「天照大神」というのの「天(あま)」は、実は「海(あま)」なんじゃないか、という指摘もありますしね。
そのへんはまた、いろいろと考えていきたいと思います。

とりあえず「しき宮に、雄略はいなかった」ぞ、ということで(^_^;)。


記紀はなんのために書かれたのか [問題提起]

実は突然、膨大な(^_^;)資料が降ってきて、読むのに手間取っています。
超(←難解というよりは、解釈拡大しすぎという感じの)本も多いし(-_-;)。
そして、古事記と日本書紀を取っかえ引っかえ読み直しては、あーでもないこーでもないと……書き込むまでにちょっと間があいてしまいましたが。

ともあれ、2005年がはじまりました。ぼつぼつという感じですが、また思いついたことを書いていこうと思っています。

さて、さまざまな日本古代史に関する書物を読みますと、まるで当然のことのように、「ここの部分は歴史じゃなくて神話だから、ここで書かれている人物は実在しない」とか、書かれてます。
神功皇后は実在しないとか、神武天皇と崇神天皇の間に八人の天皇も実在しない、とかね。
実在しないというのはどういう意味なのか。
もちろん、文献上であらわれただけの名前が、歴史的には生存したことがなかった、という意味なのでしょうけれど。
それって、言い切っちゃっていいことなんですか、と思うわけです。
たとえば、平凡社の百科事典の古事記の項目では「これまで古事記は史書とされてきたが、全巻ひっくるめて本質的には神話とみなしたほうがよい」とかね。
どうして「みなしたほうがよい」なのか、理由がわからんわけです。
もちろん、神話部分が含まれるというのは分かります。いくつかの神話要素から構成されていることも分かる。
でも、そうやって語り伝えられたものを「古事記」という形にするのは、史書を作るという作業ではないのかな。それすらも「神話」にしちゃっていいのかな。

たとえばシュリーマンの考古学。
はたまた神話世界の洪水物語。
物語的に語り伝えられてきて、「あれは神話」「あれは作り事」とされてきたことが、考古学的に証明されて、実は本当にあったことなんだってのは、ちょっと考古学かじっているといっぱいでてきます。
文献的にどうなのよって思ったことでも、追っかけていくと実在が証明されたりね。
はたまた、『ルーツ』が証明する、「口誦」の神秘。文字文化のない社会において、口から口へ伝えられたものごとが、驚くほど間違いなく何世代にも渡って語り伝え得るということを、あの伝記は証明していました。

ゼロから一人の人間を作り出すことは、実はとても大変なことです。
存在したことのある人の生涯を、作り替える、適当に改竄することはできると思うけど、まったく存在しないところに、一から「こんな人」と想定して作っていくということは、それが記紀でなくとも、ちょっとありえないんじゃないの、と思ってしまうわけです。
語り伝えられていること、というのは、実はとても重要なことのように思う。
だから、私は記紀に書かれている「天皇」たちは、それが天皇であったかどうかは別にして、実在していた、と考えています。

もし実在しないというのなら、実在しない人物を捏造するだけの理由を、きちんと提示してほしいんですね。文書として残すというのは、口誦で残す以上に大変な作業であったと思われます。特に、記紀編纂当時は、まだ文章を書ける人間が限られていたはず。おそらく当時はまだ、日本語表記というものも確定していないし、借り物の中国の字体を使って、筆記用具だって紙にしろ筆にしろ墨にしろ、みーんな舶来品ですよ。これを使っておそるおそる文章にするわけです。
あだやおろそかに、いない人間でっちあげられるとは思えないのです。
それでもでっちあげなければならない事情はあるかもしれない。だとしたらその事情を推理するぐらいのことはしてほしいんですね。

それは結局のところ、記紀は何のために書かれたのか、ということを追究してほしいということです。なんかこの基本部分が欠落しているものが多すぎる。
古事記と日本書紀、現存しているものは、原本ではありません。写本です。
写本の年代も中世です。10世紀まではさかのぼれない。
そういう形で残っている、おそらくは日本最古であろう書物とは、そもそもなんなのか、ということを、きちんと語ってほしいのです。
なんか、歴史学そのものが、そこんところで、黙して語らずって感じで、気持悪いなぁ。

一方で天皇陵と呼ばれる古墳群が宮内庁の管轄になっていて、考古学のメスがいまだにいれられないという事情はあります。
記紀に関する学術的成果が、なんらかの形でストップを受けることもあるように見受けられます。
それも困った問題ではあるけれどねぇ。

というわけで、果たして記紀はなんのために書かれたのか。

自分でもきちんと答えがでているわけじゃありません。

たとえば。
古事記に書かれている万葉仮名は、万葉集と同じ、百済経由の中国南方読みが基本となっている。
一方、日本書紀で用いられている万葉仮名は、中国北方の読みを基本にしている。
しかし、養老私記では南方系の読みらしい。

養老私記ってのは、日本書紀ができあがってから、最初に行われた講筵で作られた注釈記みたいなものだと思うんですが、こいつはまだ、南方系なのですな。
養老のあとは、弘仁年間まで講筵は行われてません。で、弘仁以降は、大体30年ごとに講筵が行われているんですよ。たいがい、2~3年かけて、日本書紀をぜーんぶ読んで、読みのわからないところとかチェックして、あーだこーだとやるらしいです。それが終わると、歌会をやって、その記録も残っています。

つーことは、日本書紀が宮廷に伝わっていて、当時の宮廷人が(すべてはとは言わないが)日本書紀を読むということはなされていたっぽい。
で、日本書紀の編纂に関しては、どうも天武年間にあれこれでてきたのがそれじゃないかなぁって推定されているんですけど、詳しいことはわからない。古事記と違って序文がないですからね。
でも出来上がりに関しては、続日本紀に書かれているので720年(養老4年)だとはっきり分かっているわけです。
ちなみに、日本書紀や続日本紀などをあわせて六国史といいますが、その中に古事記ははいってません。
古事記は序文から712年(和銅5年)に献上したことになってますが、続日本紀の和銅年間には古事記献上の記事はありません。
ついでにいうと、古事記と日本書紀は同じ内容を扱っている部分が多々あるんですが、もちろん、使用している仮名が違うということをおいても、一字一句違わず同じ、という文章はほとんどありません。日本書紀はもとになる資料を並記する方法(一書に曰く、という、あれです)を取っていますが、その一書の中に、これは確実に古事記だ!というものはありません。

そう、つまるところ、古事記は日本書紀のソース(原資料)になってないわけですよ。
(そのくせ、「古事記の中・下巻は、歴代天皇の系譜やおもな事跡に関する簡単な記録と、歌謡を含む物語部分からなるが、前者が帝紀、後者が旧辞を指すというのが通説である」とか言い切っちゃうんだなぁ←平凡社百科事典「帝紀」項目)
(はたまた、「編集に使われた資料は、古事記のように特定の帝紀や旧辞だけでなく、」とかいっちゃってるんだなぁ←平凡社百科事典「日本書紀」項目)
古事記そのものは、語り伝えられていくうちに、誤りもあれば齟齬もあるので、そこを整理して一本化したぜ、と序文で明記しているので、文体を整えることも含めて、ソースとなる原資料に手を加えた可能性は十分にありえるわけですが。
日本書紀はそういう作業を「一書」に関してしたか、というと、していないと思うのです。だって、作業したんなら、もっと整然と統一が見えるように手を加えると思うし、そもそも一書形式で並記する必要ないですからね。
少なくとも日本書紀で「一書に曰く」と言われて引用されている部分は、ほかとどのように齟齬があろうともそのまま載せるぞ、という編集者の意地みたいなものが感じられるわけですよ。
そこに、古事記の文章は、そのまま載っていない、というわけです。

ここから、二つのケースが想定されます。
その1.古事記は、日本書紀編纂者が、原資料として使うに足りないと判断して、原資料に採用されなかった。
その2.古事記は、日本書紀編纂当時、まだ献上されていなかった。あるいは献上されたけれど、私的なものであって、資料とすべく公にはされていなかった。

その1に関しては、記紀を読み比べた印象として、日本書紀編纂時に古事記があったら、絶対に一書には使うんじゃないかと思う、としか言いようがないです。いや、こういう形で書かれているものがあって、絶対に使わないってのは、およそないだろうと。
そもそも、資料として提出させたものに関しては、なんらかの形で、一行なりとも引用してるんじゃないかなぁと想像しちゃいます。提出するほうだって大変なわけですよ。おそらく自分とこの一冊しかない原本を全部写本して提出するんだと思います。それってすごい手間だし、そうやってだしたあげくにまったく使われてなかったら、ブーイング出るんじゃないかな(^_^;)。
その2は、要するに序文と実態が違うということになります。こっちは問題が多い。なんでかっていうと、太安万侶はどうやら実在したらしいけど、稗田阿礼に関してはまだ、どんな人物なのか分かってないんですよね。天武の舎人って言われているけど、日本書紀の天武年間にもまったく名前がでてこないし、そもそも稗田氏を名乗るものがいないんじゃなかったかしら。
それで稗田阿礼が習い覚えたものを、太安万侶が筆写したということになっているわけですけどね、これを天皇に献上したってことになっているわけですけどね、それが日本書紀に利用されていないわけですよ。
そして献上したんだったら、日本書紀の資料に使われないと、太一族(多氏)は怒るんじゃないかなぁ(^_^;)。怒らなくても拗ねるよね。しかも太安万侶の子孫の多人長なんかは、安万侶自身が日本書紀の編纂に参加したとか主張しちゃってるわけです。参加しているのに、使わないはずないよなぁ。

そんなわけで、古事記に関しては、成立年代そのものが、そもそも疑問噴出なんです。
そして日本書紀はね……という話は、また項目を改めることにしましょう。


息長に関する考察 [問題提起]

息長と書いて「おきなが」と読みます。
この「おきなが」について、ちょっと考えてみたい

まず、神功皇后の名前が「おきながたらしひめ」ですね。
いや、この人、実在しないともっぱらなんですが。
それもどうかなーと思う。
ゼロから人の名前や実績を作るって、けっこう大変だと思うのよ。
何かしら、実在の人がいて、それをモデルにして変容はさせた可能性はあると思いますが。
で、古事記ではですね。この人、いきなり登場するのは、筑紫(福岡)の香椎(かしい)です。
彼女のかわいそーな夫である仲哀天皇は、下関の豊浦にいたんだけど、そのあと香椎に移っています。ここで天皇さんが琴をひいているとですね、いきなり、奥さんの息長タラシちゃんが神掛かるわけです。
で「ここの西に宝の国があるからとれ~」と言うのね。
でも仲哀は南の熊襲を平らげようとしていたので、「西には海しかないから、そんな神様信用しない」と言うわけ。(たしかに福岡あたりから西をみても、国はなさげですね)
すると、神功皇后のついた神様が怒るんですな。
で、なぜかここに、武内宿禰(たけのうちのすくね)なる人物がおりまして、仲哀さんに「琴ひきつづけましょーよ」というんです。彼は「さにわ(審神かな)」としてその場にいたようです。
そしてですね……いきなり、琴の音がとぎれましてですね、おそるおそる灯火かかげて見に行くと、仲哀さんはあわれお亡くなりになっていたわけですわ。
さて、神がかりする神功皇后に、その神の言葉を言い伝える武内宿禰というのは、なんとなく、卑弥呼とその男弟のペアのように受け取れます。
そんで、こん時神功皇后は妊娠してたんだけど、「おなかの子が跡継ぎじゃー」という神様の言葉にしたがって、妊娠したまま新羅征伐(をいをい)にいっちゃった。
しかも、戦争してる間、子供が生れないようにと石を抱いて(んな馬鹿なっ)そのせいで、応神天皇は母親の体内に二年半とかいたらしい(爆)。
ま、それはさておき。
宝の国は新羅だったようですね。

そこでまた、息長に戻ります。息は「おき」と読むけど、「いき」とも読めるよね。
そうすると、息長という氏族は、壱岐とか隠岐とかに関係するんじゃないかなー、と思ったりするわけです。
壱岐といえば対馬と並んで朝鮮半島と北九州を結ぶ路線の中にいます。
古くから、「倭」と呼ばれる人々が、この地域を包含していたらしい。
というか、「倭」のおおもとは南朝鮮(それが伽耶連合なのか、それとも伽耶ができて追い出された海辺の人々なのかはさておき)で、さらに対馬と壱岐を包含して、さらには北九州から長門・隠岐あたりまでは勢力範囲だったんじゃないだろーか。もちろん、それは支配していたという意味ではなく、「自由に航海できる」って意味での勢力範囲、ですがね。
そう、彼らは海を渡る部族だったのであります。

で、なんで壱岐にこだわるかっつーと。
ここに月読社があるからなのだ。
というか、本来の月読って、ここの神様なのだ。
そう、天照大神と月読と素盞鳴の、あの月読ざんすよ。
そもそも、記紀神話の中でも、エピソードすら語られない月読。
それなのに天照の弟として、三貴神の一人となる月読。
あまりにもエピソード多すぎてごっちゃな素盞鳴と対照的な月読は、どうして三貴神の一人に取り上げられたんだろう。
のちに、天照信仰は、伊勢を中心にして、天武朝に大がかりに作られたらしいんですけど、そのときに、天照の弟が月読になった。けど、エピソードはなし。ただ、弟がいるだけ、なのね。
でも、姉と弟っていうペアは必要らしい。(弟二人っていうけど、素盞鳴は明らかに別系列だもんね)

この記紀の三貴神設定そのものが天武期であるかもしれないわけですが、じゃあどうしてそこに、月読をいれなくっちゃいけないのか、というのが、ずーーーーっと私の謎だったのです。
すんげー謎。
そりゃぁ、日と月で対応してなきゃいかん、ちゅうのはわかるけどさ。
ほかにほとんど、祀る部族もない、壱岐の神様がなんで? とは思いません?

で、これがですね、そもそも神功皇后は壱岐の出身だったのよ、なんてーことになると、ちょっと面白いかもと思った次第でありんす。
まぁ、実際、壱岐には神功皇后を祀った聖母(しょうも)神社なんかありますけどね。
それにしても、神功皇后と武内宿禰のコンビが、絶対に「できてる」ように思ってしまうのは、これはただのヨコシマでしょうか、そうでしょうねぇ……。

さて日本書紀では、神功皇后の名前は気長足姫尊であります。もちろん「気長」は「おきなが」と読むのですけどね。
で、仲哀天皇、いきなり、角鹿(つぬが→敦賀)にいきます。しかも行宮(かりみや、だそうだ)をたてて、これを笥飯宮(けひのみや)といいます。
それから南の国を巡回するといって、紀伊国へいきます。
すると熊襲が反乱起こしたというので、船にのって穴門(あなと→山口県豊浦郡あたり)にいきます。
そして、敦賀にいた皇后に、穴門にきてくれ~というのですね。

う~ん、そうなると、仲哀はむしろ、越の人なのかな、とも思いますねぇ。
越と息長(琵琶湖周辺)という関係は、継体とその母親なんかの関係とも似てますし。
まぁ、琵琶湖周辺にいた息長が、そのもとはどこだっただろうという推測として、壱岐とか隠岐というのは、ありえないことはないと思いますけどね。
というのも、記紀で最初に息長がでてくるのは、実はこの神功皇后ではなくて、垂仁天皇の時なんですね。
垂仁天皇というと、皇后佐保姫が、兄の佐保彦と夫の垂仁天皇とどっちを選ぶかと迫られて、兄を選んでしまうという悲哀の話が伝わっていますが。いまわのきわに、「自分のかわりに、丹波(たにわ)のヒコタタスミチノウシの娘を」と言うのです。
で、ヒコタタスミチノウシというのは、サホヒメの異母弟になりまして、氷羽州(ひばす)姫を初めとする、このミチノウシの娘たちは、サホヒメにとって姪に当たるのですね。
(氷室冴子さんの銀の海...コバルト文庫は、このへんの人たちが入り乱れる古代ロマンで、たいそうおもしろいし、とてもリアルなので、一読の価値ありですよ♪)

息長タラシは、このミチノウシの異母弟の曾孫になります。
そしてミチノウシの母親が、息長水依姫なのですな。
で、この息長水依姫は、天御影神の娘だと古事記はいってます。
一方、息長タラシの母親は、葛城の高額(たかぬか)姫だといいます。

サホヒコとサホヒメの母親は、春日の建国勝戸売(たけくにかつとめ)の娘サホの大闇見戸売(おおくらみとめ)とといいます。

このへんの、息長と、春日・葛城との婚姻関係というのが、けっこう、おもしろそうですね。

なんとなく、葛城ってのが、かなり重要なポイントなんじゃないかと思っていまして。
つまり、天皇が天皇であるという条件の一つに、「葛城の娘」ってのがいるんじゃないかと思っているのですよ。
これはまた、別項目をたてて、じっくり妄想してみましょう。

というわけで、息長はなんだかしりきれとぼになっちゃいましたが、このへんで。


任那と鉄と [問題提起]

まぁ、ふらふらと日本古代史の続き。

「任那(みまな)」というのは、日本人だとわりと「任那日本府」とかで「高句麗好太王碑」とかとセットで日本史で勉強した記憶がある……はず。(なくても許すぞ)
これに関しちゃ、日韓併合時代に、好太王碑(いまでは、広開度王碑と言われる)の碑文を改竄した云々なんてーおろかしい噂もたっておりまして、早い話が、そんな古代に日本が朝鮮半島を征伐しにいった、なんて、あほんだらな~、ということになっております。
でも記紀では「三韓征伐」「新羅征伐」みたいな言い方をしておりますのよ。
このへんの言い方に関しては、ちょっと腹案があるんだけど、それはおいといて。

現行、「任那日本府はなかった」ってことで、日韓双方の歴史家の意見は一致しているようであります。
任那日本府ってのは、任那(朝鮮半島南部の、釜山に近いあたりと想定されている)に日本政府の出先機関があって、そこに兵力も蓄えられていて、そいでもってあれこれ朝鮮半島で日本兵が戦ったと思われていたらしいんですな。(まぁ、それらしい記述ではある、たしかに)
しかし、そもそもそんな出先機関作るような政府が、当時の日本のどこにある~ってことで。
いや、そもそも政府あったんかいな、という感じですね。

まぁ、政治的な意味合いもあって、この「任那日本府」は学会としては早めに引っ込めたはずなんですが、どっこい、けっこう長いこと教科書に残っちゃってて、それでいろいろと問題にもなりました。はい。

で、現在では、この任那というのは「金官加羅」だろうということになっています。
金官加羅というのは、朝鮮半島南部に、結局、国家形成に至らなかった、加羅もしくは伽耶と呼ばれる地域があって、その中のいくつかのグループのひとつであります。ほかにも、安羅とか多羅とか、大伽耶などなどありまして、そう、「倭の五王」の「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓なんたらかんたら将軍」みたいな称号がありましたが、この中の「任那」「加羅」なんとか韓あたりは、みんな伽耶のそれぞれの小国群をさしてるんだろうということに、大体、落ち着いています。
ま、なんとなく、秦韓は辰韓、慕韓は馬韓なんじゃないかって説もあって、そうすると、任那加羅あたりは弁韓なので、それって三韓全部じゃん、ずーるーいっっってことになると、思うな。
一応、中国の史書で、こういうふうに称号あげたよ~んといってるんだけど、どうよねぇ。

それはさておき、この任那であるところの金官加羅を含む伽耶全域は、かつて弁韓と呼ばれた地域とほぼあたるだろうと言われております。
で、この弁韓てーのはですね、鉄の産地なんですわ。
しかもこの鉄は獩や倭も採りに来る、と言われているばかりでなく、楽浪郡あたりにも運ばれていたらしきことが史書に書かれてます。
つまり朝鮮半島南部は早くから鉄製品の産地として名高かった、というわけですな。

そういう地域が、国家形成されずに、残っているわけです。
誰もが欲しいよね。
そんなわけで、新羅も百済も、加羅を併合しようと、どんぱちやってきます。
これの尻馬に乗ったのが、倭、というあたりが真相に近いんじゃないかなぁ。

ちなみに倭ですが、わたくし、近畿大和政権とイコールとは思っていません。
あれは「倭の別種」と言われた日本であって、倭は九州王朝だろうと思っています。
神功皇后にぶっころされたっぽい仲哀天皇(この名前からして、すんげーかわいそうだよねー)なんかは、この九州王朝な人なんじゃないかと思いますな。
んでもって、神功皇后なんて、もしかしたら、伽耶あたりの小国のお姫だったかもしれず。
そいで、自分とこ助けてもらおーと思って、倭王と結婚までしたのに、兵力出してくんないってんで、怒って旦那ぶっ殺して、自ら兵力持ってでかけていった……と考えると、なんとなく、納得いくんですけどね。
そこに介在する武内宿禰も、どうやら渡来人らしいということになっているようですし。

まぁそんなことをつらつらと考えてみるのも楽しいもんです。
平安朝を開いた桓武天皇が、これまた母親が百済系で、名前もなんだか百済っぽくて、すばらしく渡来な匂いがするので、この桓武までは、渡来系二世とか三世あたりが、勢力持ってる巫女と結託して、大王の座を争ったぐらいに考えてるんですよね。
大体、日本古来の家族制度は母系だし、女性の墓が独立して存在することからも、女の地位はかなり高かった……というか、ある種の女の存在なくして天皇にはなれなかったんじゃないかな、と思ってます。

その背景に、常に任那の鉄(軍事力)があるわけね。だから、古代日本においては、表の海岸ルートは、瀬戸内海ではなく、壱岐・対馬・出雲・丹後・敦賀・越というルートだと思われます。
応神にいたって、住吉の海軍力を握って、瀬戸内ルートを制覇して、難波を出城(でじろ、だと思うのよ、難波は)にしたんじゃないかな。
それより前の、あの大和の地域は、果たしてどれほどの権力が握れただろうか。

ただ、宗教的な基盤はあったわけで(三輪の大物主が古そうだ)そいつを継承しないと、本当の意味で日本を制覇することができなくて、じたばたしているうちに、ライン途絶えて、敦賀から継体がやってくる。
この人はなんだかもう、ストレートに新羅か高句麗あたりから渡ってきていそうですよね。
てなことを、つらつらと考えているもんだから、現在の課題は……。

キーとなる巫女王の系譜探し。
記紀に見られる帝王の子供たちの命名に、何か謎はないか。(よく、乳母の名前がつけられるって言い方するんだけど……それ、おかしい気がするのよね)
そもそも、天皇になるってどういうこと?(大嘗会の記載は、天武天皇がはじめてなんざんす)

このへんが、すんげー気になるところ。

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で、タイトルとはちょっとずれますが。
この記紀にみられる皇子たちの命名に関して、とてもおもしろい説があったので、ご紹介をば。
初期天皇后妃の謎―欠史八代...
この本は、日本古代史とアイヌ語サイトの管理人さんがおかきになったもので、たまたま縁あって手に取って読む機会があったのですが、なかなか示唆的なのです。
それはつまり「妻方の親から名前を受け継ぐ」つまり、入り婿になる、ということですね。

これは巫女王の系譜探しと、皇子たちの名前ってことで、つながる疑問にひとつの答えが出せるんじゃないかと思うわけです。
たとえばスサノオなのですが。
クシナダ媛の両親、アシナヅチ・テナヅチは、またの名を「稲田宮主簾狭之八箇耳(いなだのみやぬしすさのやつみみ」と言うのであります。
あるいは、アシナヅテナヅの妻が、稲田宮主簾狭之八箇耳だったりする。
クシナダは「奇しき稲田」なので、その両親が宮主となるわけですが、そうなると、そもそもの名前は「スサ」の八つ耳」なわけね。
つまり、スサノオのスサは、妻の親(父親なのか母親なのか、一書によって違うんだけど)の名前をもらっていることになる。

こういう事例が、欠史八代にもみられると、おっしゃるわけで、その謎の解明については、上記のご本もしくはサイトをごらんいただくとして。

なんとなく、「入り婿しないと」というのが、キーポイントな気がしてきたんですよ。


飛ぶ鳥の明日香 [問題提起]

別ブログで書いていたネタを引っ張ってきました。
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ここのところ、だらだらと日本古代史の本を読んでます。

その中で、かーなーり強い疑問が沸き上がるものは、もちろんいっぱいあるのだけど(^_^;)、とりわけ気になっているのが「飛鳥」とか「日下」とか「春日」とか「大和」とかの言葉。
えぇ、地名です。
これらの言葉は、「二字で構成されている」「漢字本来の音訓にそぐわない読みである」というのが特徴。
二字に関しては、ある時期、地名とか人名とかを、「佳き二字に設定しましょう」なんてー運動があったせいらしいんだけど。(泉を和泉とかね)
そのまえに、どうしてこんな読み方するんだよー、という疑問が死ぬほどあるわけね。

で、「日下」はもともと「草香」らしいんだけど、そして「飛鳥」は「安宿」らしいんだけど、春日や大和は不明。大和はどうやら「和氏(やまとうじ)」という氏族がいて、これが渡来系らしいときいて仰天(だって、大和系列はもともと土着だって説が強かったんだもの)してますが、春日なんかは比較的新しい地名だから、まぁ、そいつは棚上げしてですね。
日下であるところの「草香」に関しても、すんげー興味津々なことがあるんですが、まずは飛鳥にいってみます。

飛鳥

これが「安宿」だってのは、安宿媛(あすかべのひめ)なんてのがいるから、間違いないらしい。で、どうして「安宿」が「あすか」かっていうと、どうも古代朝鮮語で、これを「あんすく」と読んだからだろうという説が有力になっている。
なるほど、「安宿」は古代朝鮮系列、それはいいですよ。というか、そうでしょう、としか言いようがないんだけど、じゃあ、どうして「飛ぶ鳥」と書いて「あすか」と呼ぶようになったの、というあたりは、まだ誰も教えてくれないんだな。

なので、飛躍してみようと思うわけです。
伽耶地域(朝鮮南端部分、悪名高い任那日本府があったかどうかと騒がれている地域)は、結局、国家の形で集合することがなかったのだけど、小さい国というより諸村連合みたいなものが群雄割拠していたっぽい。そこの古い都というのは、どれも中央に川が、それも大河でなく小さな川が流れていて、東西に丘陵がある盆地で、てな話を読んで、う~む、これは飛鳥に限らず、日本古代の都と呼ばれるあたりはそういう感じだよなぁと思うことしばし。

これはたぶん、四神相応、つまり風水にのっとって都になる土地を定めていると思われるわけですが、それこそが「安宿(安息の地)」なんじゃないかなぁ、なんて思ったりして。
で、この安宿を定めるために、たとえば鳥を飛ばして決める、なんて巫術があったら、面白いなぁと思うわけです。

ノアの方舟の話でも洪水のあと、まず人間が住めるほどに水がひいているかどうか、鳥を飛ばして確認するよね。
あーゆー鳥を飛ばす話ってのは、あちこちにあるんですが。
日本じゃ八咫烏の話しかないみたいだけど、あれもまぁ、いい場所を先導する役目ではあるよね。
そんなふうに、鳥を飛ばす呪術、それが「とぶとりのあすか」という枕詞に関係しないかなぁ、なんてぼんやりと思ったり。

まぁここんとこずっと、朝鮮半島の出自といえばツングースで、ツングースといやぁシベリア方面まで広がっていて、そのシャーマニズムが有名だよねってことから、ぼけぼけと考えているわけですわ。
基本的には古代の朝鮮半島で、ツングースと言われているのは高句麗と百済であって、新羅はちがうぞーという説もあるけれど、どうやら昨今、新羅にもかなり北方遊牧民族系がはいりこんでいるってのが実証されてきているらしい(とりわけ、考古学的に)。

遊牧民族というと、なんとなくモンゴル系を考えてしまうのだけど、日本に直接影響してきたのは、ツングース系のようです。だから、ツングース系のシャーマニズムはもうちょっと勉強してもいいような気がするのね。

なので、しばらく飛ぶ鳥のネタを追ってみようかと思っているわけです。

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てなことを書いてました。う~ん、読み返してもやっぱりおもしろい。
このネタ、追っかけてみましょうかねぇ。


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