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ツクヨミの謎 [月読尊]

ツクヨミ、ツキヨミ、ツキユミ……。
この「月」を意味する神様の名前は、あまりバリエーションがない。
結局は「月を読む」のだ。
なぜ月を読むのか。
それは航海する上で必須だから、なのではないかと。

航海でもう一つ重要なのは、星である。
古くは「つつ」と呼ばれた星を祀る神様は、イザナキが禊で生んだ三神で、底筒男命、中筒男命、表筒男命といい、住吉神社に祀られている。
この住吉神社のあるところは、壱岐、博多、長門、摂津で、この本貫が壱岐なのか博多なのかはむずかしいけれど、そもそもこちらの神様である。(神功皇后の三韓征伐の時に援助した神様なんだな、これが)

で、月読ですが、これを祀る神社が、また壱岐にある。

壱岐月読神社


この月読神社を祀るのは、卜部氏である。
ついでにいうと、卜部氏は、伊豆・壱岐・対馬にあって三国卜部と呼ばれたらしい。
対馬では、太祝詞神社や能理刀神社を祭祀していたそうな。
さらに常陸の卜部は鹿島神宮の祭祀をつかさどっていたがそれはさておき。

記紀において、三貴神とあがめられながら、ツクヨミにはほとんど事跡がない。
わずかに残っているウケモチの神に関する事跡は、同じような話がスサノオのオオゲツヒメに関する事跡として古事記にある。
そしてウケモチの神に関しては、ツクヨミがこれを汚いとして殺したら、アマテラスが大層怒って、「お前と同じ場所にいたくない」といい、それで、日をアマテラスが夜をツクヨミがおさめることになって、二人はならばないのだ、という落ちがつく。

せいぜいがところ、この程度だ。
ツクヨミのおさめるところも、アマテラスとともに天にあげられた、というほかに、夜食国(よるのおすくに)という説と、滄海原(あをうなはら)という説があるけれど、夜食国が根の国ならば、これまたスサノオとかぶる。
つまり、大変に実態のない神様なのだ。

その後の天孫降臨に関しても全然でてこないし、ましてやスサノオ関係にも顔を出さない。

こいつはもしかして、大変に壱岐ローカルな神様なんじゃないだろうか。

航海の神様としても、住吉のほうが格が高い。しかも広範囲に広がっていて、後の世まで栄える。
それに比べると月読社は京都に勧請はされるけれど、大変にひっそりとしているし、その後も特別扱いされることはない。
アマテラスが伊勢に鎮座して、下にもおかないもてなしを受けるのとは好対照だ。
あるいはスサノオが、天上で、出雲で暴れることとも。

一体、なんだって、こんなに影のない月読が、三貴神として重要視されているんだろう。

奝念の「王年代紀」には、月読の名前がなかった。
ということは、月読のいない神代神話というものが、存在するかもしれない。
そこでは、アマテラスとスサノオは姉弟ですらないのだ。

ではなぜ、日本書紀には月読が登場したのか。
アマテラス信仰を宮廷の中心に据えるために、日とならぶ月が必要だった、という説もある。
日月神話というのは、世界のかなり広範囲に広がっているので、そのパターンに、それぞれの神を当てはめたのではないか、という推論も成り立つ。
そう、アマテラスとて、そもそもは伊勢の海士が信仰するローカルな神だっただろうから。
(そのもとは「海照(あまてらす)」だと思うのよ)

伊勢が天武の挙兵に重要な役目を果たしている、というのは有名な話だ。
実際のアマテラス信仰と伊勢神宮の成立は、天武期以降だろうというのが、昨今の学説の主流を占めている。
つまり、アマテラス信仰は新しいというわけ。
日本書紀は天武の命令によって編纂が開始されたというから、その当初から神代をアマテラス中心に書くことは可能だっただろう。

で、卜部は中臣なのである。
つまり月読を推す勢力というのは、中臣氏なわけだ。これはちょいと近江朝に近すぎて、天武期にはむずかしい立場にあったはず。
それでも鎌足の一統は、一部は藤原として華々しく開き、中臣もまた神祇をつかさどって、卜部とともにしぶとく生き残る。
月読の名前が、名前だけであろうと、とりあえず高天ヶ原のパンテオンで中心にいる三柱の神の一人として残るのは、そういう理由かもしれない。
その後、藤原は春日大社を本貫にしちゃうから、月読は忘れ去られたのかしらねぇ。

実はいま住んでいるところのすぐ近くに、月読社がある。
なんでこんなところに月読が、と思って調べ始めたのが、記紀にはまるきっかけだった。
いや、こんな関東のど田舎に月読さんがやってきたのは、これという理由もないようでしたけどね。
まぁでも、月読を奉じる部族が、このあたりに入植したのかもしれませんな。


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