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聖徳太子の謎 [日本紀解体]

聖徳太子については、いろいろ言われていることもあると思いますが、なんかうちの考えはずいぶん違う感じもするんで、そこんとこ、あまり深く悩まずに、思ったことをつらつら述べていこうかと思います。

まず。
日本書紀の推古天皇の条から、聖徳太子に言及している部分を抜き書きしてみましょう。

推古元年「夏卯月に、厩戸豊聡耳皇子をたてて、皇太子とする。よりて、録(まつりごと)摂政(ふさねつかさど)らしむ。万機(よろづのまつりごと)を以て悉(ことごとく)に委ぬ。(以下、用明の第二子として生誕時の逸話を)」

推古二年「春二月に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興し隆えしむ。(以下、寺を作ったエピソード)」
推古二年「五月に、高麗(こま)の僧(ほふし)慧慈(えじ)帰化(まうおもぶ)く。則ち、皇太子、師(のりのし)としたまふ」

推古九年「春二月に、皇太子、初めて宮室(みや)を斑鳩に興てたまふ」

推古十一年「春二月に、来目皇子、筑紫に薨せましぬ。よりて駅使(はいま)して、奏し上ぐ。ここに天皇、聞きて大きに驚きて、皇太子・蘇我大臣を召して、謂(みことのり)してのたまはく、「新羅を征つ大将軍(おおきいくさのきみ)来目皇子薨せぬ。其の大きなる事に臨みて、遂ぐることえずなりぬ。甚だ悲しきかな」とのたまふ。(その後、殯の記事)」
推古十一年「十一月に、皇太子、諸の大夫(まへつきみたち)に謂(かた)りて曰く、「我、尊き仏像有(たも)てり。誰か是の像を得て恭拝(いやびまつ)らむ」とのたまふ。(秦河勝が蜂岡寺を作るエピソード)」蜂岡寺→のちの広隆寺
推古十一年「是の月に、皇太子、天皇に請(まう)したまひて、大楯及び靫(ゆき)を作り、又旗幟(はた)に絵(えが)く」

推古十二年「夏四月に、皇太子、親(みづか)ら肇めて憲法(いくつしきのり)十七条(とをあまりななをち)作りたまふ。(以下、憲法十七条の条文すべて)」

推古十三年「夏四月に、天皇、皇太子・大臣及び諸王・諸臣に詔して、共に同じく誓願(こひちか)ふことを発(た)てて、始めて銅(あかがね)・繡(ぬひもの)の丈六の仏像、各一軀を造る。(鞍作鳥に仏像を造らせた話)」
推古十三年「閏七月に、皇太子、諸王・諸臣に命(みことおほ)せて、褶(ひらおび)着しむ」
推古十三年「冬十月に、皇太子、斑鳩宮に居(ま)す」

推古十四年「秋七月に、天皇、皇太子を請(ま)せて、勝鬘経(しょうまんぎょう)を講(と)かしめたまふ。三日に説(と)きをへつ。 是歳、皇太子、亦法華経を岡本宮に講く。天皇、大きに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子に施(おく)りたまふ。因(よ)りて斑鳩寺に納(い)れたまふ」

推古十五年「春二月……甲午に、皇太子と大臣と、百寮(つかさつかさ)を率(い)て、神祇(あまつかみくにつかみ)を祭(いは)ひ拝(いや)ぶ」

推古二十一年「十二月に、皇太子、片岡に遊行(い)でます。(以下、飢えたるひとに出会って云々という、説話が詩つきではいります)」

推古二十八年「是歳、皇太子・嶋大臣、共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部あわせて公民等(おほみたからども)の本記を録(しる)す」

推古二十九年「春二月に、半夜(よなか)に厩戸豊聡耳皇子命、斑鳩宮に薨(かむさ)りましぬ。(以下、嘆き悲しむ民の話)。
是の月に、上宮(かみつみやの)太子(柩の皇子)を磯長(しなが)陵に葬る。(以下、高麗に帰っていた慧慈が厩戸逝去を聞いて悲しむ話)」

以上です。
正直いって、あまり多くない。
万機を委ねるといっておきながら、皇太子がやったことになっているのは、
1.斑鳩に宮をたてる。
2.秦河勝に広隆寺を造らせる
3.大楯と靫を造り、旗に絵を描かせる。
4.憲法十七条を造る。
5.諸王・諸臣に、褶(ひらおび)を着せる。
6.斑鳩宮に移る。
7.天皇の要請で、勝鬘経、法華経を講義する。
8.神祇を拝礼する。
9.片岡で飢えた聖に出会う。
10.天皇記などを記す。
と大体、こんなぐらいです。
実は小野妹子の実績も、そのほかの新羅や任那とのやりとりにも、皇太子の名前は全然でてきません。
小野妹子がらみの話は、これまた大きくなるのでとりあえず、おいとくとしても、意外にも厩戸皇子が関わった事柄というのは実に少ないのです。
少なすぎるぐらいです。

そのうち、1.3.5.6.8.10.というのは、ひとつながりではないか、と想像しています。
そして、大楯・靫を造り、神祇を拝礼しているところから、斑鳩宮で即位しているのではないか、と推測しております。
そもそも推古天皇に竹田皇子という跡取りの息子がいながら、これについて言及することなく、ほかの皇子にも言及せず、なんら混乱もなく厩戸皇子がすんなりと皇太子(ひつぎのみこ)として紹介される、という展開が、日本書紀としてはかなり異例です。
これは、厩戸皇子が天皇となっていて、しかし、これに敵対するライバルもいて、将来的にはそのライバルのラインのほうが優性になってしまったために、厩戸皇子は皇太子のままでとどめられたんじゃないかなぁ、という気がするのです。
で、その事実を隠すために、ライバルである彦人大兄(ひこひとのおおえ)には言及していないわけです。
でも、山背でなく舒明がすんなり(じゃないかもしれないけど)次の天皇になったのは、厩戸の対抗馬としての彦人大兄が揺るぎない力を持っていたからじゃないのかなぁ、なんて思っています。
そして実は外交関係は、この彦人大兄が握っていたんじゃないのかな?

推古13年に、厩戸は斑鳩宮に居ます。これはたぶん、このときに、斑鳩に完全に「隠遁」したんだと思います。でも、斑鳩宮は9年から造っているんですね。本来は斑鳩で天皇になろうとした、あるいはなったんだと思います。が、結局、嶋大臣(蘇我馬子)はとにかくとして、ほかの諸王・諸臣は斑鳩に参集しなかったんじゃないかな。
なんせこの13年からあと、皇太子の名前がでてくるのは、ほとんど仏教関係です。

推古の宮は飛鳥の岡本にあった、とされています。ここから斑鳩まではかなりの距離です。
毎日通うには、ちょっと遠い距離だと思うが、いかがでしょうか。
だから推古が請うと、のこのこと斑鳩からやってきて、お経を講義してまた帰る。
なんとなく、そんな厩戸が目に浮かびます。
それは政争に破れ、政治家としての道を断たれた印象なのです。

最後の最後に、天皇記などを造ったことになっていますね。
これは結局、蘇我蝦夷入鹿親子が滅ぼされた時に、船史(ふねのふひと)が救い出して、中大兄に献上したことになってますが、それはまた、別の話として。

とりいそぎ、この辺まで。
何が謎やらという感じですが。


池辺皇子の謎 [日本紀解体]

夫と二人、日々、日本書紀を読んでいる。
ある時、夫が面白いことに気づいた。
「なんか、うじのかいだこのひめみこ(敏達天皇と推古天皇の長女、ということになっている。聖徳太子の奥さん)の別名って、同じ名前の敏達の別の娘がいるんだけど」

まずはここを、日本書紀から拾ってみよう。
「四年の春正月の丙辰の朔甲子に、息長真手王の女広姫を立てて皇后とす。是一(ひとり)の男(ひこみこ)・二(ふたり)の女(ひめみこ)を生れませり。其の一を押坂彦人大兄皇子と曰(まう)す。其の二を逆登(さかのぼり)皇女と曰す。其の三を菟道(うぢ)磯津貝(しつかひ)皇女と曰す」
これは敏達天皇四年条の冒頭。このあとに何人か奥さんをもらった情報がはいる。
そして、この年の冬に皇后の広姫が亡くなります。
「五年の春三月の己卯の朔戊子に、有司(つかさ)、皇后を立てむことを請す。詔して豊(とよ)御食(みけ)炊屋(かしきや)姫尊を立てて皇后とす。是、二の男・五の女を生れます。其の一を、菟道貝蛸(かいだこ)皇女と曰す。更(また)の名は、菟道磯津貝皇女。(以下略)」
そして、次の項目。
「七年の春三月の戊辰の朔壬申に、菟道皇女を以て、伊勢の祠(まつり)に侍らしむ。即ち池辺(いけへ)皇子に姧(をか)されぬ。事顕れて解けぬ」

さて、ここでいう、菟道皇女(うじのひめみこ)とは、広姫の娘のほうの菟道磯津貝皇女のことだ、と注釈には書いてあります。
すなわち、敏達記に、この人は「宇遲(うじ)王」と書かれているからですね。
炊屋姫(のちの推古天皇)のほうの娘については、敏達記では「靜貝王、またの名は貝蛸王」と書かれているのです。
異母姉妹で同名はありえないはずなのに、いろいろと混乱しているようです。

で、池辺皇子ですが、この人は他に見えなくて、どこのだれだか分からないんだそうです。
これが不思議だ。
伊勢の祠というのは、たぶん、伊勢斎宮の前身だろうと考えられています。いわば、菟道皇女は斎宮なわけです。これを犯してしまった。斎宮は処女でなければならないから、もう斎宮ではいられない、だから解任された、というわけですよね。
ちなみに、七年に菟道皇女は伊勢の祠に侍らしむわけですが、何年に解任されたかはこの文面からは分かりません。
次の伊勢斎宮っぽい記述は、用明天皇条で、即位と同時に、「酢香手姫皇女を伊勢神宮に拜して、日神の祠に奉らしむ」とあり、敏達年間にはほかの皇女を伊勢に、という記述はありません。
となると、菟道皇女は、七年に伊勢の祠についてから、十四年の敏達薨去までの間のいつかに解任されたことになります。
で、池辺ってのは、なんとなく地名っぽい気がするね、という話はあったわけです。
皇子の名前に地名がつけられることはよくありますからね。
で、池辺という地名って、どこかで聞き覚えがあったね……といって調べてみたら、なんのことはない、用明天皇の宮が「池辺双槻(いけのへのなみつき)宮」でした。
ここがもともとの用明の根拠地であるとすると、池辺の皇子というのは、用明か、さもなきゃその息子の厩戸ってーことになります。

はい、そうです。菟道の貝蛸(一名、磯津貝)を嫁さんにもらってる、あの厩戸さんです。聖徳太子さんです。

まっさかねー。

と思いつつも、なんとな~く、不思議に思っているのは。
聖徳太子の正妻であるはずのこの菟道貝蛸皇女に、子どもがいないんですよ。
世継ぎである山背(やましろ)大兄の母親は、蘇我馬子の娘の刀自子(とじこ)郎女(いらつめ)ということになっていますからね。
しかも山背が「大兄」と呼ばれているからには、皇太子(ひつぎのみこ)に準じる形での後継者扱いされていたと思われるふしがあります。
もし菟道貝蛸に息子がいたら、血筋の上からも、確実にそちらのほうが上位なので、山背が大兄であるということは、少なくとも貝蛸皇女には皇子がいなかったということになります。

しかし、これもまた、不思議な話しではあるわけですよね。
推古朝に聖徳太子は皇太子(ひつぎのみこ)となり、摂政として女帝を助けていたことになっています(なっている、とか書いちゃうけど……いや、詳しいことはたぶん、別項になると思いますが)。
でも、どうしてこの人が皇太子になったのか、詳しい選定とかはまったくなく、いきなり、なんですよね。
こんだけあちこちで、あれやこれや世継ぎ争いしている時に、たぶん竹田皇子(推古の息子)は亡くなっていたとは思うのですが、もうひとり尾張皇子という息子がいることになっています。しかも聖徳太子はこの尾張王の娘を娶っているという説もあるんですよね。そうなると少なくとも娘ができるほどには成長しているはず……しかし尾張皇子、その後どこにもでてきません。

そしてもうひとつ。
貝蛸って、やどかりの意味らしいんです。
「此の物、貝の内にある小さき蛸にて、両の手両の脚を其の殻の外へだして、海をおよぎ行く物なりといえり」というのは、まさに、やどかりですよね。
宿借りという名前の皇女……その皇女の別名と同じ名前の別の皇女、そして池辺皇子。

もしも池辺皇子が聖徳太子のことだったら……と思うと、妄想は果てし無く広がっていきます。
それはまた別項にて。


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