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「春秋の筆法」で書記を読む~3 蝦夷篇 [春秋の筆法]

「春秋の筆法」について、気になりだしたので、日本書紀における漢文装飾部分を網羅しています。
圧倒的に多いのは、漢書と文選と礼記なのだけれど、ときどき、そうでないものもある。
そして、どうやらもとにしている文書やその内容が、書き手の記事に対するさりげない批判をあらわしている……ぽい。
いや、それこそが、「春秋の筆法」というわけですが。

で、それをやっているときに、面白いものを見つけてしまったので、とりあえずメモ。

景行天皇五十六年条
「時に蝦夷の首帥(ひとごのかみ)足振辺(あしふりべ)・大羽振辺(おおはふりべ)・遠津闇男辺(とおつくらをべ)等、叩頭(の)みて来(まうけ)り。頓首(をが)みて罪を受(うべな)いて、尽(ふつく)に其の地(ところ)を献(たてまつ)る。因(よ)りて、降(したが)ふ者を免(ゆる)して、服(まつろ)はざるを誅(つみな)ふ」云々。

さて問題は、「頓首受罪、尽献其地……」の部分であります。
これ、出典は史記の周本紀。ここでは
「西周君犇秦。頓首受罪、尽献其邑……」とあるそうです。
で、問題は。
蝦夷に相当するのが、西周君。
秦が大和朝廷(といっていいのかわからない……が、景行天皇側)なのです。
(犇という言葉は、奔という言葉と同じ意味だそうでして「はしる」と読みます)

つまりですね。西周の君(前王朝の最後の王様ってことですね)が、秦(新興勢力で、大変に意気盛んで、つまりは荒々しかった……そうです)にくだって、頓首しちゃったわけです。
えぇ下克上ですよ。

それをそのまま考えると、蝦夷の王朝というものがあって。
そちらのほうが優雅にして文化も高かった(周という国に擬せられるなら、そういうことになります)。
そこへ新興勢力大和(力はあるけれど野蛮)がやってきて、一気に王朝を簒奪してしまった。
その結果、ついに蝦夷の王様が捕らわれて頭をさげて土地を差し出して、なんとか命は許してもらいました、ということになる……わけです。

蝦夷が。
大和朝廷よりも文化の高い王朝だった。
可能性は……あるかもなぁ。

わざわざこうやって史記の周本紀(ふだんはあまり使っていない)を引き出してきているところを見ると、それっぽい感じがしますよ?
で、実際にこれをやったのは、景行天皇の命を受けた御諸別王(みもろわけのみこ)という人でして、崇神天皇の息子彦狭嶋王(ひこさしまのみこ)のそのまた子どもになります。
そもそもここの部分の内容は、ほかとはつながらないので、あとから挿入されたっぽいんですけどね。
で、この、ヒコサシマ→ミモロワケってのが、東国の平定を命じられて、ついに果たしましたってことなんだけど。
その結果として、彼らの後裔が、上毛野(かみつけぬ)下毛野(しもつけぬ)の君の一族となるんだそうです。
そうなると、彼らが平定した蝦夷というのは、上毛の中心とする、毛野(けぬ)の地を支配していた王族だったってこと……なりませんかね。
正確にいうと、秦に比定されているのは、この上毛野・下毛野君の祖先ってことになります。

これがいつごろのことか、というのを調べていくのも面白そうですよね。
そして。
関東の、上毛、たぶん群馬の高崎あたりを中心に存在したと思われる王朝(サキタマ古墳出土の刀との関連を思い出してみてください)が、実はかなり古くて由緒あって文化もあって、きちっとしていたんじゃないか、と思われてなりません。
全部ばっさり跡形もなく消されてしまって、「蝦夷」と一括りに蛮族扱いされちゃってるけど、本当はそうじゃなかったんじゃないか。
むしろ平定した、とか言われている崇神の子や孫のほうが、蛮族王朝だったんじゃないか、と思わせるものがありますね。

そういうあたりを、春秋の筆法で書いている、と思うと、ますます、書記の編纂者たちの姿を詳しく追究したくなっちゃいます。


「春秋の筆法」で書記を読む~2 天皇葬法篇 [春秋の筆法]

その1は、天皇の薨去の文例を並べました。
で、その2は、こんどは葬法について、並べてみたいと思います。

1.神武 「明年(くるつとし)の秋九月の乙卯の朔丙寅に、畝傍山東北陵に葬りまつる」(神武七十有六年条)

2.綏靖「元年(はじめのとし)の冬十月の丙戌の朔丙申に、倭の桃花鳥(つき)田丘上陵に葬りまつる」(安寧条)

3.安寧「秋八月の丙午の朔に、畝傍山南御陰(みほと)井上陵に葬りまつる」(懿徳元年条)

4.懿徳「明年(くるつとし)の冬十月の戊午の朔庚午に、畝傍山南繊沙谿(まなごのたに)上陵に葬りまつる」(考昭条)

5.考昭「三十八年の秋八月の丙子の朔己丑に、掖上(わきのかみ)博多山上陵に葬りまつる」(考安条)

6.考安「秋九月の甲午の朔丙午に、玉手丘上陵に葬りまつる」(考霊元年条)

7.考霊「六年の秋九月の戊戌の朔癸卯に、片丘馬坂陵に葬りまつる」(考元条)

8.考元「五年の春二月の丁未の朔壬子に、剣池嶋上陵に葬りまつる」(開化条)

9.開化「冬十月の癸丑の朔乙卯に、春日率川(いざかわ)坂本陵に葬りまつる。一(ある)にいわく、坂上陵。」(開化六十年条)

10.崇神「明年(あくるとし)の秋八月の甲辰の朔甲寅に、山辺道上陵に葬りまつる」(崇神六十八年条)
「冬十月の癸卯の朔癸丑に、山辺道上陵に葬りまつる」(垂仁元年条)

11.垂仁「冬十二月の癸卯の朔壬子に、菅原伏見陵に葬りまつる」(垂仁九十九年条)

12.景行「二年の冬十一月の癸酉の朔壬午に、倭国山辺幹上陵に葬りまつる」(成務条)

13.成務「明年の秋九月の壬辰の朔丁酉に、倭国の狭城(さき)盾並(たたなみ)陵に葬りまつる」(仲哀即位前記)

14.仲哀「是年、新羅の役によりて、天皇を葬りまつること得ず」(仲哀九年条)
「即ち天皇の喪(みもがり)を収めて、海路より京に向(いでま)す」(神功皇后即位元年条)
「二年の冬十一月の丁亥の朔甲午に、河内国の長野陵に葬りまつる」(神功皇后条)

15.神功皇后「冬十月の戊午の朔壬申に、狭城盾並陵に葬りまつる」(神功皇后六十九年条)

16.応神……記載なし

17.仁徳「冬十月の癸未の朔己丑に、百舌鳥野(もずの)陵に葬りまつる」(仁徳八十七年条)

18.履中「冬十月の己酉の朔壬子に、百舌鳥耳原陵に葬りまつる」(履中六年条)

19.反正「冬十有一月の甲戌の朔甲申に、耳原陵に葬りまつる」(允恭五年条)

20.允恭「冬十月の庚午の朔己卯に、河内の長野原陵に葬りまつる」(允恭四十二年条)

21.安康「三年の後、乃(いまし)菅原伏見陵に葬りまつる」(安康三年条)

22.雄略「冬十月の癸巳の朔辛丑に、丹比(たぢひ)高鷲原陵に葬りまつる」(清寧元年条)

23.清寧「冬十一月の庚午の朔戊寅に、河内坂門原(さかとのはら)陵に葬りまつる」(清寧五年条)

24.顕宗「冬十月の丁未の朔己酉に、傍丘(かたをか)磐杯丘(いわつきのおか)陵に葬りまつる」(仁賢元年条)

25.仁賢「冬十月の己酉の朔癸丑に、埴生坂本陵に葬りまつる」(仁賢十一年条)

26.武烈「二年の冬十月の辛亥の朔癸丑に、傍丘磐杯丘陵に葬りまつる」(継体条)

27.継体「冬十二月の丙申の朔庚子に、藍野陵に葬りまつる」(継体二十五年条)

28.安閑「是の月に、河内の旧市(ふるいち)高屋丘陵に葬りまつる」(安閑二年十二月条)

29.宣化「冬十一月の庚戌の朔丙寅に、大倭国の身狭(むさ)桃花鳥(つき)坂上陵に葬りまつる」(宣化四年条)

30.欽明「秋八月の丙子の朔に、新羅、弔使(とぶらひ)未叱子失消(みししししょう)等(ら)を遣して、殯に奉哀(みねたてまつ)る。
九月に、檜隅(ひのくま)坂合(さかい)陵に葬りまつる」(欽明三十二年条)

31.敏達「是のときに、殯の宮を広瀬に起つ」(敏達十四年秋八月条)
「四年の夏四月の壬子の朔甲子に、磯長(しなが)陵に葬りまつる。是其の妣(いろは)皇后の葬られたまひし陵(みはか)なり」(崇峻条)

32.用明「秋七月の甲戌の朔甲午に、磐余池上陵に葬りまつる」(用明二年条)

33.崇峻「是の日に、倉梯(くらはし)岡陵に葬りまつる」(崇峻五年十一月条)

34.推古「秋九月にの己巳の朔戊子に、始めて天皇の喪礼(みものこと)を起す。是の時に、群臣(まへつきみたち)、各(おのおの)殯宮に誄(しのびことまう)す。是より先に、天皇、群臣に遺詔(のちのみことのり)して曰く、「比年(としごろ)、五穀登らず。百姓大きに飢う。其れ朕が為に陵を興てて厚く葬ること勿(まな)。便に竹田皇子の陵に葬るべし」とのたまふ。壬辰に、竹田皇子の陵に葬りまつる」(推古三十六年条)

35.舒明「甲午に、初めて喪(みま)を発す。壬寅に、滑谷岡に葬りまつる」(皇極元年十二月条)

36.孝徳「十二月の壬寅の朔己酉に、大阪磯長(しなが)陵に葬りまつる」(孝徳白雉五年条)

37.斉明「六年の春二月の壬辰の朔戊午。天豊財重日足姫天皇と間人皇女とを小市岡上陵に合せ葬せり。是の日に、皇孫大田皇女を、陵の前の墓に葬す」(天智条)

一応、斉明天皇までといたします。
でも実際は、欽明以降は、殯(もがり)について、もっと詳しく引用したほうがいいかもしれないなぁ。

とりあえず、その天皇の条の最後か、次の天皇の条の冒頭のあたりに大体あるんですが、ときどきそうでないものがあって……要注意です。

これを見て分かることは、崇神と垂仁とで、書き手が違い、使っている暦も違うということ。
応神の記載がない(でも応神陵というのは認定されているんだよね?)ということは、どれが応神陵と書記選定(あえて、選定といおう)時に決定できなかっただろうということ(^_^;)。
殯がはじまるのは欽明天皇からで、つまり欽明朝以降、葬儀方法が変わったということですな。
あと、合葬というのも注目すべきポイントだとおもうのですが……さすがに羅列しただけで疲れてしまったので、とりあえず、ここで筆を置きます。


「春秋の筆法」で書記を読む~1 天皇逝去篇 [春秋の筆法]

前記事で紹介した、「春秋の筆法」で、書記を読み直してみよう、という試みです。
「春秋の筆法」とは、孔子が『春秋』を著すうえで取った、独特の文章スタイルのこと。
簡潔を旨とし、余計なことは言わないが、「あえて書かなかった」部分で、裏の事情をそれとなく読者に知らしめるというもの。
前記事では、魯公の逝去記事について紹介したので、これと同じものを選んでまずやってみましょう。

そもそも、日本書紀じゃ天皇の暗殺だって堂々と書かれているじゃないか、「春秋の筆法」なんか使われているはずはない、と思われるあなた、まずはごらんあれ。
(文中、「時に年幾許」とある場合、幾許にはそれぞれの数字がはいっております。「若干」の場合は本文ママです)

神武 天皇、橿原宮に崩(かむあが)りましぬ。時に年幾許。
綏靖 天皇不予(みやまひ)したまふ。癸酉に、崩りましぬ。時に年幾許。
安寧 天皇崩りましぬ。時に年幾許。
懿徳 天皇、崩りましぬ。
考昭 天皇崩りましぬ。
考安 天皇崩りましぬ。
考霊 天皇崩りましぬ。
考元 大日本根子彦国牽天皇崩りましぬ。
開化 天皇崩りましぬ。
崇神 天皇、践祚(あまつひつぎしろしめ)しての○年○月の○日に、崩りましぬ。
垂仁、纏向宮に崩りましぬ。
景行、高穴穂宮に崩りましぬ。時に年幾許。
成務、天皇崩りましぬ。時に年幾許。
仲哀、天皇、忽(たちまち)に痛身(なや)みたまふことありて、明日(くるつひ)に、崩りましぬ。時に、年幾許。即ち知りぬ、神の言を用いたまはずして、早く崩りましぬることを。[分注]一(ある)にいわく、天皇、親(みづか)ら熊襲を伐ちたまひて、賊の矢に中(あた)りて崩りましぬといふ。
神功皇后、皇太后、稚桜宮に崩りましぬ。[分注]時に年幾許。
応神、天皇、明宮に崩りましぬ。時に年幾許。[分注]一にいわく、大隅宮に崩りましぬという。
仁徳、天皇、崩りましぬ。
履中、天皇、玉体(おほみ)不悆(やまひ)したまひて、水土弗調(やくさ)みたまふ。稚桜宮に崩りましぬ。[分注]時に年幾許。
反正、天皇、正寝(おほとの)に崩りましぬ。
允恭、天皇崩りましぬ。時に年若干(そこばく)。
安康、天皇、眉輪王の為に殺(し)せまつられたまひぬ。
雄略、天皇、疾(おほみやまひ)弥(いよいよ)甚(おも)し。百寮(つかさつかさ)と辞訣(わかれ)たまひて、並びに手を握りて歔欷(なげ)きたまふ。大殿(おおとの)に崩りましぬ。
清寧、天皇、宮(とつみや)に崩りましぬ。時に年若干。
顕宗、天皇、八釣宮に崩りましぬ。
仁賢、天皇、正寝に崩りましぬ。
武烈、天皇、列城(なみき)宮に崩りましぬ。
継体、天皇、病(おほみやまひ)甚(おも)し。天皇、磐余玉穂宮に崩りましぬ。時に年幾許。
安閑、天皇、勾金橋宮に崩りましぬ。時に年幾許。
宣化、天皇、檜隈(ひのくま)廬入野(いほり)宮に崩りましぬ。時に年幾許。
欽明、天皇、遂に内寝(おほとの)に崩りましぬ。時に年若干。河内の古市に殯す。新羅、某を遣して、殯に奉哀(みねたてまつ)る。
敏達、天皇、病弥留(おも)りて、大殿に崩りましぬ。この時に殯宮を広瀬に起つ。(馬子と守屋の誄)
用明、天皇、大殿に崩りましぬ。
崇峻、馬子宿禰~すなわち、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)をして、天皇を弑(し)せまつらしむ。この日に、天皇を倉梯岡陵に葬りましぬ。
推古、天皇、臥病(みやまひ)したまふ。~天皇、痛みたまふこと甚だしくて緯むべからず。~天皇崩りましぬ。[分注]時に年幾許。即ち南庭(おほば)に殯す。秋九月にはじめて天皇の葬礼を起こす。この時に、群臣各々殯宮に誄す。
舒明、天皇、百済宮に崩りましぬ。宮の北に殯す。これを百済の大殯という。このときに東宮開別(ひらかすわけ)皇子、年十六にして誄したまふ。
孝徳、天皇、正寝に崩りましぬ。よりて殯を南庭に起つ。
斉明、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。~~天皇の葬(みも)をもって、飛鳥の川原に殯す。これより発哀(みねたてまつ)ること、九日に至る。
天智、近江宮に崩りましぬ。新宮に殯す。
天武、天皇の病、遂に差(い)えずして、正宮(おおみや)に崩りましぬ。初めて発哭(みねたてまつ)る。即ち殯宮を南庭に起つ。(以下、「みね」と「しのびごと」の事例が延々と)

持統天皇は譲位しているので、日本書紀における天皇の死亡例はここまでです。

ながながとやってきましたが、ただ「崩りましぬ」という例と、「どこそこに崩りましぬ」という例があるということがお分かりいただけると思います。
同時に、年齢を書いている場合とそうでない場合があることもお分かりいただけると思います。
そして後半、殯や誄といった葬礼に関する情報が増えていることがわかります。
これは欽明からなので、欽明天皇以降、葬礼が変わったということが判明します。
私は欽明は外来の天皇だと思ってますんで、ここで半島の葬礼を持ち込んだと考えます。「みね」奉るのが新羅からの遣人だけってのも、それっぽいですね。

基本的に、正寝とか~~宮というところでお亡くなりになるのが、普通に病死しました、という意味です。そして、古い天皇であっても、宮の在所ぐらいはわかりますから、その気になれば付け足すことができるのにやってない、という事例は、やはり穏やかな死ではなかったのかなぁ、と邪推できます。事前に病気についての説明がある場合は、病死でよいと思うのですが、それでも、推古の場合は死んだ場所が書かれていないのは、ちょっと妙な感じです。
そして、舒明「のみ」南ではなく北に殯宮を作っているのが、すごく変ですね。百済宮でなくなったから、これを「百済大殯」という、なんて書いてありますが、それもすさまじくおかしいです。しかも百済宮って、どこなんでしょう。なんでまた百済宮?

いずれにしてもこの書き出し、やってみたらすごく面白かったんです。
とりあえず、ただの死亡記事が、安寧、懿徳、考昭、考安、考霊、開化、成務、仁徳、允恭までです。仁徳がただの崩御ってのが、ちょっとオドロキでした。
病気の記事は後半増えてきますね。それだけ情報が豊富なのでしょう。
仲哀なんかは、死亡記事が錯綜してます。
応仁も死亡した宮が複数言い伝えがあって、はっきりしません。
こんなところからも、いろいろ邪推できそうで、楽しいです。

こうなってくると、即位記事とか、御陵の記事とか、あるいは奥さんと子供の記事とか、それぞれ別々に並べてみると楽しそうですね。
まさしく解体作業というにふさわしいかも。


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