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記紀はなんのために書かれたのか [問題提起]

実は突然、膨大な(^_^;)資料が降ってきて、読むのに手間取っています。
超(←難解というよりは、解釈拡大しすぎという感じの)本も多いし(-_-;)。
そして、古事記と日本書紀を取っかえ引っかえ読み直しては、あーでもないこーでもないと……書き込むまでにちょっと間があいてしまいましたが。

ともあれ、2005年がはじまりました。ぼつぼつという感じですが、また思いついたことを書いていこうと思っています。

さて、さまざまな日本古代史に関する書物を読みますと、まるで当然のことのように、「ここの部分は歴史じゃなくて神話だから、ここで書かれている人物は実在しない」とか、書かれてます。
神功皇后は実在しないとか、神武天皇と崇神天皇の間に八人の天皇も実在しない、とかね。
実在しないというのはどういう意味なのか。
もちろん、文献上であらわれただけの名前が、歴史的には生存したことがなかった、という意味なのでしょうけれど。
それって、言い切っちゃっていいことなんですか、と思うわけです。
たとえば、平凡社の百科事典の古事記の項目では「これまで古事記は史書とされてきたが、全巻ひっくるめて本質的には神話とみなしたほうがよい」とかね。
どうして「みなしたほうがよい」なのか、理由がわからんわけです。
もちろん、神話部分が含まれるというのは分かります。いくつかの神話要素から構成されていることも分かる。
でも、そうやって語り伝えられたものを「古事記」という形にするのは、史書を作るという作業ではないのかな。それすらも「神話」にしちゃっていいのかな。

たとえばシュリーマンの考古学。
はたまた神話世界の洪水物語。
物語的に語り伝えられてきて、「あれは神話」「あれは作り事」とされてきたことが、考古学的に証明されて、実は本当にあったことなんだってのは、ちょっと考古学かじっているといっぱいでてきます。
文献的にどうなのよって思ったことでも、追っかけていくと実在が証明されたりね。
はたまた、『ルーツ』が証明する、「口誦」の神秘。文字文化のない社会において、口から口へ伝えられたものごとが、驚くほど間違いなく何世代にも渡って語り伝え得るということを、あの伝記は証明していました。

ゼロから一人の人間を作り出すことは、実はとても大変なことです。
存在したことのある人の生涯を、作り替える、適当に改竄することはできると思うけど、まったく存在しないところに、一から「こんな人」と想定して作っていくということは、それが記紀でなくとも、ちょっとありえないんじゃないの、と思ってしまうわけです。
語り伝えられていること、というのは、実はとても重要なことのように思う。
だから、私は記紀に書かれている「天皇」たちは、それが天皇であったかどうかは別にして、実在していた、と考えています。

もし実在しないというのなら、実在しない人物を捏造するだけの理由を、きちんと提示してほしいんですね。文書として残すというのは、口誦で残す以上に大変な作業であったと思われます。特に、記紀編纂当時は、まだ文章を書ける人間が限られていたはず。おそらく当時はまだ、日本語表記というものも確定していないし、借り物の中国の字体を使って、筆記用具だって紙にしろ筆にしろ墨にしろ、みーんな舶来品ですよ。これを使っておそるおそる文章にするわけです。
あだやおろそかに、いない人間でっちあげられるとは思えないのです。
それでもでっちあげなければならない事情はあるかもしれない。だとしたらその事情を推理するぐらいのことはしてほしいんですね。

それは結局のところ、記紀は何のために書かれたのか、ということを追究してほしいということです。なんかこの基本部分が欠落しているものが多すぎる。
古事記と日本書紀、現存しているものは、原本ではありません。写本です。
写本の年代も中世です。10世紀まではさかのぼれない。
そういう形で残っている、おそらくは日本最古であろう書物とは、そもそもなんなのか、ということを、きちんと語ってほしいのです。
なんか、歴史学そのものが、そこんところで、黙して語らずって感じで、気持悪いなぁ。

一方で天皇陵と呼ばれる古墳群が宮内庁の管轄になっていて、考古学のメスがいまだにいれられないという事情はあります。
記紀に関する学術的成果が、なんらかの形でストップを受けることもあるように見受けられます。
それも困った問題ではあるけれどねぇ。

というわけで、果たして記紀はなんのために書かれたのか。

自分でもきちんと答えがでているわけじゃありません。

たとえば。
古事記に書かれている万葉仮名は、万葉集と同じ、百済経由の中国南方読みが基本となっている。
一方、日本書紀で用いられている万葉仮名は、中国北方の読みを基本にしている。
しかし、養老私記では南方系の読みらしい。

養老私記ってのは、日本書紀ができあがってから、最初に行われた講筵で作られた注釈記みたいなものだと思うんですが、こいつはまだ、南方系なのですな。
養老のあとは、弘仁年間まで講筵は行われてません。で、弘仁以降は、大体30年ごとに講筵が行われているんですよ。たいがい、2~3年かけて、日本書紀をぜーんぶ読んで、読みのわからないところとかチェックして、あーだこーだとやるらしいです。それが終わると、歌会をやって、その記録も残っています。

つーことは、日本書紀が宮廷に伝わっていて、当時の宮廷人が(すべてはとは言わないが)日本書紀を読むということはなされていたっぽい。
で、日本書紀の編纂に関しては、どうも天武年間にあれこれでてきたのがそれじゃないかなぁって推定されているんですけど、詳しいことはわからない。古事記と違って序文がないですからね。
でも出来上がりに関しては、続日本紀に書かれているので720年(養老4年)だとはっきり分かっているわけです。
ちなみに、日本書紀や続日本紀などをあわせて六国史といいますが、その中に古事記ははいってません。
古事記は序文から712年(和銅5年)に献上したことになってますが、続日本紀の和銅年間には古事記献上の記事はありません。
ついでにいうと、古事記と日本書紀は同じ内容を扱っている部分が多々あるんですが、もちろん、使用している仮名が違うということをおいても、一字一句違わず同じ、という文章はほとんどありません。日本書紀はもとになる資料を並記する方法(一書に曰く、という、あれです)を取っていますが、その一書の中に、これは確実に古事記だ!というものはありません。

そう、つまるところ、古事記は日本書紀のソース(原資料)になってないわけですよ。
(そのくせ、「古事記の中・下巻は、歴代天皇の系譜やおもな事跡に関する簡単な記録と、歌謡を含む物語部分からなるが、前者が帝紀、後者が旧辞を指すというのが通説である」とか言い切っちゃうんだなぁ←平凡社百科事典「帝紀」項目)
(はたまた、「編集に使われた資料は、古事記のように特定の帝紀や旧辞だけでなく、」とかいっちゃってるんだなぁ←平凡社百科事典「日本書紀」項目)
古事記そのものは、語り伝えられていくうちに、誤りもあれば齟齬もあるので、そこを整理して一本化したぜ、と序文で明記しているので、文体を整えることも含めて、ソースとなる原資料に手を加えた可能性は十分にありえるわけですが。
日本書紀はそういう作業を「一書」に関してしたか、というと、していないと思うのです。だって、作業したんなら、もっと整然と統一が見えるように手を加えると思うし、そもそも一書形式で並記する必要ないですからね。
少なくとも日本書紀で「一書に曰く」と言われて引用されている部分は、ほかとどのように齟齬があろうともそのまま載せるぞ、という編集者の意地みたいなものが感じられるわけですよ。
そこに、古事記の文章は、そのまま載っていない、というわけです。

ここから、二つのケースが想定されます。
その1.古事記は、日本書紀編纂者が、原資料として使うに足りないと判断して、原資料に採用されなかった。
その2.古事記は、日本書紀編纂当時、まだ献上されていなかった。あるいは献上されたけれど、私的なものであって、資料とすべく公にはされていなかった。

その1に関しては、記紀を読み比べた印象として、日本書紀編纂時に古事記があったら、絶対に一書には使うんじゃないかと思う、としか言いようがないです。いや、こういう形で書かれているものがあって、絶対に使わないってのは、およそないだろうと。
そもそも、資料として提出させたものに関しては、なんらかの形で、一行なりとも引用してるんじゃないかなぁと想像しちゃいます。提出するほうだって大変なわけですよ。おそらく自分とこの一冊しかない原本を全部写本して提出するんだと思います。それってすごい手間だし、そうやってだしたあげくにまったく使われてなかったら、ブーイング出るんじゃないかな(^_^;)。
その2は、要するに序文と実態が違うということになります。こっちは問題が多い。なんでかっていうと、太安万侶はどうやら実在したらしいけど、稗田阿礼に関してはまだ、どんな人物なのか分かってないんですよね。天武の舎人って言われているけど、日本書紀の天武年間にもまったく名前がでてこないし、そもそも稗田氏を名乗るものがいないんじゃなかったかしら。
それで稗田阿礼が習い覚えたものを、太安万侶が筆写したということになっているわけですけどね、これを天皇に献上したってことになっているわけですけどね、それが日本書紀に利用されていないわけですよ。
そして献上したんだったら、日本書紀の資料に使われないと、太一族(多氏)は怒るんじゃないかなぁ(^_^;)。怒らなくても拗ねるよね。しかも太安万侶の子孫の多人長なんかは、安万侶自身が日本書紀の編纂に参加したとか主張しちゃってるわけです。参加しているのに、使わないはずないよなぁ。

そんなわけで、古事記に関しては、成立年代そのものが、そもそも疑問噴出なんです。
そして日本書紀はね……という話は、また項目を改めることにしましょう。


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binten

こんにちは
吉備国のヨタ話書きました。

http://blog.livedoor.jp/binten/archives/12421711.html
by binten (2005-01-16 16:47) 

vetty

書いておられるとおりですね。 理解に苦しむところは、殆ど、神話とされています。
きっと、事実であろうと思います。
全くの素人ですが、
8月5日より、二度目の【古事記を読む】をはじめました。
今回は、日本書紀と比べることによって、古事記が、当時の最高権力者である藤原不比等から、
どのような影響をうけたのかを明らかにしようと考えました。

一度、読んでいただけますと、嬉しいです。
【楽しい人生】 http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/
カテゴリーに「古事記と日本書紀」を選んでいただきますと、私のつまらない文章を避けることができます。
by vetty (2006-08-21 19:57) 

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