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紀伊の国についての謎 [問題提起]

出雲~紀伊の流れで、特に紀伊について考えてみたいと思うのです。

まずはスサノオ系列。これは植林とからんできます。
一書(第四)にいわく、「素盞鳴尊、其の子五十猛神(いそたけるのかみ)をひきいて、新羅国にあまくだりまして、~~初め五十猛神、天降ります時に、多に樹種をもちてくだる。しかれども、韓地に植えずして、ことごとに持ち帰る。ついに筑紫よりはじめて、すべて大八洲国の内に、まきおおして、青山に成さずということなし。このゆえに、五十猛神をなづけて「有功(いさをし)の神」とす。すなわち紀伊国にまします大神これなり」
最初にでてくるのがこれですね。
スサノオが息子と一書に天から新羅にいって、そこから出雲にやってくる、という話です。で、息子のイソタケルは、筑紫経由なんですね。
ほかにもいくつかの書で、スサノオの息子と娘の話にからんで、植林がらみで紀伊国がでてきます。
紀伊国の大神が、スサノオの息子で、樹種(きだね)をもってきて国中を青山にしたんですね。

次に、神武東征です。
神武は、日向の国の吾田にいる吾平津媛を嫁にします。ということは、彼はその近くに住んでるわけですね。日向のうちか筑紫の近くか、とにかく、九州のどこかにいるわけです。
で、このあたりには君も長もいて、それぞれ村ごとに境があって、おたがいしのぎを削っている。で「自分の居場所がない」ので、塩土老翁に聞いたら、「東のほうに、天磐船に乗って、ニギハヤヒがたいらげた土地があるとさ」と教えてくれたんで、そこに行こう、という話になる。
つまるところ、九州じゃ土地も持てない名も立たない、どこか奪える土地はないかと東に向けて出発しますという感じですね。
で、まずは豊後の速吸之門を経由して、宇佐にいきます。
それから、筑紫国の岡水門にいきます。(この筑紫国は、九州全般ではなく、北九州を指しているのがよくわかりますね)
それから安芸、吉備とたどっていき、それぞれに宮を作って、何年もかけて兵力を整えて、いよいよ難波に近づきますが、ここでナガスネビコに阻まれて進めず、しかも長兄の五瀬命が矢傷を負って亡くなるほど。
こりゃ駄目だってんで、名草(和歌山)から新宮を経由して熊野にいきます。で、八咫烏のお導きでもって、山越えして宇陀に入ります。

いやはや、難波から大和にはいれないからって、ぐるっと紀伊半島一周して、よりにもよって、熊野の山越えです。
これが和歌山あたりから、高野山のふもとを経由して、あるいは吉野を通って大和に抜けるんならわかりますが、ぐるっと回って熊野といえば、紀伊半島をもう半周以上しています。
どうもなんか熊野にありそうな気がしてしまいますね。

で、仁徳天皇の話にぽんと飛びますが。
仁徳天皇の奥さんは磐之媛といって、葛城襲津彦の娘なんだそうですが、「公式には」天皇家でない娘がはじめて皇后になった例と言われております。(この件については、また別項で詳しく分析したいと思いますけど)
そしてこの磐之媛は、大変に嫉妬深い女性で、仁徳さんがまた、やたらあちこちの女に浮気して、後宮にいれたいといっても許してくれない。
で、磐之媛が「紀国に遊行でまして、熊野岬に到りて、すなわちそのところの「御綱葉(みつなかしは)」を取りてかえりませり」ということがあります。
その留守中に、仁徳さん、八田皇女というのをめしいれて、うはうはやっちゃうんですね。
で怒った磐之媛は「その取れる御綱葉を海に投げ入れて」着岸せずに、そのまま大津にいっちゃうんです。
熊野→難波→大津……この動きだけでも、とんでもないと思うんですが。
当時の熊野って難所だったと思うんですが、そういうところに奥さんがでかけている(たぶん、神事に必要なものだったんだと思います)のに、そのあいまに女ひきいれてちゃぁ、そりゃ怒るよな。
ではなくて。
磐之媛は大津から山背を抜けて倭に入り、自分ちである葛城を横目にみつつ、綴喜にいたって、「宮室(おほとの)」を作ります。これが筒木宮なんですが。
なんと、磐之媛は、迎えにきた仁徳を蹴って、「あたしの留守中に、女ひきいれたじゃないっ」と許さず、とうとう、その宮で亡くなってしまうのですね。

天皇家の出でない磐之媛が、夫の天皇をおっぽりだして、実家に帰って宮を構えてしまうというのもすごいけれど、仁徳はそれを迎えにいくのです。そして結局、磐之媛は戻ってこないんですが、磐之媛が亡くなるまでは、ほかの女性を皇后にすることができないのです。
このことに、「葛城」という出身と、「熊野に御綱葉を取りに行く」ということが、関係あるんじゃないかな、とちょっと思っています。
つまり、熊野の木から葉を取ってくるわけですよね。この木は、スサノオが息子の五十猛に命じて紀伊までもたらした、神聖なる木なんでしょうね。
そしてこの葉を取るのは、女性の役目なのかしら。
もしかすると、それは葛城という氏族にかかわりのある役目なのかもしれません。

葛城というのは、天孫一族よりずっと早くにやってきて、大和に根を張った氏族だと思います。
たぶん、磯城・葛城という感じで力があったんじゃないかな。
この連中が祀っていたのが、三輪の大物主なわけです。すなわち「大国」の主ですね。
崇神の娘ヤマトトトビモモソヒメがこの大物主の奥さんになって、という話がありますが、この婚姻なくして天孫族は大和を支配することができなかったんじゃないかなー、なんて思います。
神武の奥さんだって、事代主神(オオナムチの子)の娘ですからねぇ。
この大国系と婚姻しないと、天孫族は「おおきみ」になれなかったようなのですよ。
なんてことを、紀伊国と関連づけて考えると、ますます謎は深まるばかりなのですが。


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コメント 5

binten

>名草(和歌山)から新宮を経由して熊野にいきます。で、八咫烏のお導きでもって、山越えして宇陀に入ります。

私は和歌山に入って吉野川をずっと登っていくルートで倭に入るのだと思ってました。
この和歌山から倭に入るルートの途中でいろんな小部族の記述があったように記憶しております。
ここに登場する小部族の名称やら風俗から察するに水稲栽培を生業としていない部族なのかなぁ。と思ってました。
熊野の山を抜けるルートならそういう部族が多数存在していたことも分かる気がします。
そもそもただ吉野川を上流に登っていくだけなのになぜ八咫烏が道案内する必要があったのか疑問だったのですが、よく分かりました。ありがとうございます。
by binten (2004-12-25 01:10) 

点子

実は私も、紀伊から吉野経由だと思い込んでおりました。
というか、吉野って重要拠点ですよね。けっこう、宮があって、ここにせっせと通う天皇もいたし。
天武は、吉野に籠もって、ここから旗揚げしてますし。
吉野と高野と丹生川の話っていうのも、いずれ言及したいと思っているんですが、このへん、かなり重要だと思っているんです。

で、熊野っていうのは、紀伊半島南部一帯を指し示す言葉である、と平凡社の百科事典はいってるんですよ。
和歌山・三重・奈良の三県にまたがり、吉野南部を含めることもあった、と。
だけど、「紀伊国の熊野」という言い方がされるんですよね。
そうなると、熊野という地名は、紀伊よりは狭いはず……。

で、神武の場合、書記では、名草(和歌山)を経由して、熊野の神(みわの)邑(むら)にいったと書いてあるんですが、この神邑は、新宮のことだ、と注釈にあります。
ここで、天磐盾(あまのいわたて)にのぼって、そしてなぜか、どうも文脈がつながらぬままに(なんとなく、一行削っただろーって感じで)、海中(わたなか)を進んで暴風雨にあいます。
ここで、神武の兄二人が海中に没して、ようやく進むことができるようになるんです。(このへん、ヤマトタケルノミコトが暴風雨にあって、オトタチバナヒメが入水した話と通じますねぇ)
そうして、常世郷(とこよのくに)にでて、それから熊野の荒坂津、またの名は丹敷浦というところにでるわけです。ここがどこかは、実はよく分かっていないようです。もう三重県までいっちゃったかも、という説もあり。
そこで神がかりがあって、また中洲(なかつくに)にいこうと山の中に突入するんだけど、「山の中險絶しくして、復行くべき路無し」というところで、天照大神が八咫烏をつかわす、という段取りになって、ようやくにして宇陀にでるわけです。
このルートで考えると、少なくとも新宮まではいってる。そこから海路大変な目にあって、何やら海の底まで潜ったか(?)って感じで常世郷までいって、兄二人を失ってなんとか戻ってきたけど、またどたばたして、どうにかこうにか山越えして……というように読めるわけですね。

ご指摘のいくつもの小部族のことも面白いので、また項をあらためて書いてみたいと思います。
by 点子 (2004-12-25 16:04) 

tenko

さらに「古事記」をチェックしてみましたところ。
おおむね書記と同じですが、八咫烏がでてきたところで、「山の中にははいるな」と言われて、八咫烏に誘われて和歌山のほうに戻って、そこから吉野にはいって、というコースを取っているようです。
でも八咫烏がでてきた時には、熊野にいるようですね。
で、古事記の訳注によると、この熊野は三重県の南岸あたりだといってます。これはつまり、書記でそのへんまできてるからってことだと思いますけど。

でもまぁ、「紀の国」から「熊野」にいってますんで、大体「紀の国」を和歌山あたりと想定しても、「熊野」はかなり紀伊半島の南のほうなんじゃないかと思います。でもって、剣で「山に荒ぶる神」を切りふせいだと書かれているので、やはり山越えしようと思って、かなりどったんばったんあったのではないかと。
それでも行けなくて、八咫烏につきしたがって、もう一回、和歌山あたりまで戻っている、というのが古事記のルートのようです。

なんとなく、こっちのほうが正しい気もするなぁ。
いやどちらが正しいというのではなく。
熊野から山越えで宇陀に抜けるってのは……もちろん道案内がいたと書いてはありますが、すごく大変そうな気がします。
それに神武らは海洋民族っぽい感じがしますんで、むしろ紀ノ川をさかのぼって吉野から吉野川をくだっていくほうが、それらしいかなぁ、なんて。
by tenko (2004-12-25 17:35) 

binten

コメントありがとうございます。
すっかり記紀への関心が強まりました。

>熊野から山越えで宇陀に抜けるってのは・・・<中略>すごく大変そうな気がします。

私もそう思います。
奈良に行ったついでに吉野の十津川へ行ってみようと車を走らせたのですが、険しさにびっくりしてしまいました。

>神武らは海洋民族っぽい感じがしますんで、

私もそう思います。
だって神武一行の友好国って太平洋側の沿岸部に飛び飛びみたいだし移動に頻繁に船を使ってるし。
不思議なのは海洋民族の神武の子孫であるはずの天皇家(朝廷)が遣唐使の時代の航海技術がお粗末になってることです。
穏やかな瀬戸内海でさえ遭難する始末だし。

記紀がお好きな方とリアルタイムでお話できたのは初めてです。
ちょっと年始から忙しいんだけど訳本をもう一度読んでみます。
by binten (2004-12-26 10:39) 

tenko

>不思議なのは海洋民族の神武の子孫であるはずの天皇家が

でも、もしかして、遣隋使・遣唐使のころの大和朝廷の天皇家は、神武の直系ではないかもしれませんよ♪
私は少なくとも、継体天皇からあとというのは、全然違うんじゃないかな、と思っています。
遣隋使がでかけていくのは、継体よりあとのことですしね。

ただ漠然と記紀を読んで雑然と書くだけでなく、こうやって興味のある方とお話できるというのが、ブログのすばらしいところですね。
これからもよろしくお願いします。
by tenko (2004-12-26 16:27) 

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