SSブログ

土師娑婆連猪手~二人の間人を結ぶ存在 [問題提起]

穴穂部間人(用明皇后)と、間人(孝徳皇后)、この二人の間人には何か血縁関係があるのではないか、というのが、そもそもの出発点であった。

私(と私の夫)は、従来言われているように、天皇の子女たちの名前が、養育者由来であるとは信じていない。
むしろ、名前が冠するものは、その本人の所領ないし経済由来物件と何らかの関係がある、と思っている。

それで、謎の「はしひと」である。
間の人という、大変に意味深な言葉に、「愛(は)しき人」なのかなんなのか「はしひと」という読み仮名が振られている人名である。
これが、皇后として二名、存在する。
この関連性を追究したいわけだ。

というか、この二名に関連性がない、ということのほうがおかしい、と思うわけだ。
もし名前の由来が養育者であるとするならば、この二名は同じ養育者によって育てられていなければいけないが、そういう話はどこにもでてこない。
はなっから、聖徳太子の母親である穴穂部間人と、皇極天皇の娘であり孝徳天皇の妻であり、中大兄たる天智と何やらあったかなかったか判明しない間人とは、全然別人(いや、もちろん別の人であることは間違いないが)で、関係皆無というのが、従来の見解であった、と思う。

本当にそうなのか?
この二人をめぐるミッシングリンクに登場する土師娑婆連猪手はじのさばのむらじいて)を通して、二人の関連性を探ってみよう。

土師娑婆連猪手が最初に登場するのは、推古天皇十一年、百済を救済するために派遣した来目皇子が筑紫において死ぬ。そして周芳(周防)の国の娑婆(佐波)で殯をすることになる。
この殯のために中央から派遣されるのが、土師連猪手であり、このゆえに、猪手の子孫は娑婆連を名乗ることになる、というのだ。

佐波(娑婆)

次に登場するのは皇極二年九月。舒明天皇を押坂陵に葬ったあと、皇極天皇の母親である吉備嶋皇祖母(きびのしまのすめみおや)が亡くなる。このとき、「土師娑婆連猪手に勅して、皇祖母命(すめみおやのみこと)の喪(みも)を視(み)しむ」とある。

前者は殯であり、後者は喪なので、微妙に行事が違うということはあるが、葬儀にまつわることにかわりはない。
前者と後者の間には35年の年月が流れている。
この二つの葬送に一人の人間が携わっているのだ。
かたや、穴穂部間人の息子の葬儀。
かたや、間人の祖母の葬儀。
ミッシングリンクは来目皇子と吉備嶋皇祖母の間に、ある。

そもそもなぜ、土師娑婆連猪手という人物が、この二人の人物の葬儀に関わったことを、特に記さねばならなかったか、ということなのである。
たしかに土師氏は葬送儀礼をつかさどる氏族であり、彼に殯や喪(みも)を担当させるのは、ある意味当たり前のことかもしれない。
だが、問題は、それ以外の人物に特に殯や喪(みも)で土師娑婆連猪手という個人名を指定して司らせたという記述がないのに、なぜか、二人の間人に関わる来目皇子と吉備嶋皇祖母のみ、わざわざ記述しているということなのだ。

そこで古事記の記述を見ると、穴穂部間人は、埿(はつかし)部穴穂部皇女とある。
この埿(はつかし)という字は、泥の異体字であり、「どろ」と読む。
泥部・埿部とは「はつかしのとものみやつこ」と読み、令制では宮内省の土工司に所属するが、もともと土師(はじ)との関連は一目瞭然だろう。
また、はつかし(羽束師)という地名があることも、考慮にいれておくべきかもしれない。(山城国乙訓郡にあったらしい)
土師(はじ)とは、「はにし」という言葉が変化した語であって、埴輪などの土器を作ることをつかさどった人であるが、律令制では諸陵司の伴部となっている。
これをまた「土師人(はしうど)」とも呼ぶ。
間人(はしひと)との関連性はいうまでもない。
もっとも土師が貴人の葬送を司ったのは、律令制にはいってからではなく、すでにこの時代に明らかであり、むしろ埴輪を作るというその本質からみて、土器生成よりも葬送儀礼に携わることのほうが本義であるかもしれない。
とすると、土師部の下に実際に土器生成に携わる泥部がいて、これが律令下においては、葬送関係と土木工事方面とに完全分離したのかもしれない。
それはさておき、このように考えると、「間人」という名前は、土師部の存在を暗示していることになる。

この土師部の存在とは、正式な意味において土師部の統率を意味するのではないか、と私見している。
ただし土師というのは凶礼に携わるがゆえに、その名を忌むということがあり、後世、土師氏の改姓(菅原氏や秋篠氏など)ということも行われているので、その名を表に出すことは忌まれた可能性がある。
間人とは、すなわち葬送において、死者をこの世からあの世へ送るための橋渡しをする儀礼に携わる人間を意味するのではないか、などという想像の飛躍もまた楽しい。

そして、この土師娑婆連猪手が葬礼に関わる二人の人物、来目皇子と吉備嶋皇祖母は、実は血縁関係にあるのではないか。
もっと言ってしまうと、吉備嶋皇祖母は来目皇子の実の娘なのではないか。
しかし何か憚ることがあって、この二人の血縁関係を表沙汰にすることができなかったので、日本書紀の編者は、わざと葬礼に関わる一人の人物をフルネームで挿入したのではないか。
見る人が見れば、その関係性が明らかであるように。
それが春秋の筆法なのではないかと思う今日このごろ。

もしもそうだとすると、穴穂辺間人は、間人の祖母のまた祖母になるわけで……それなら、「間人=土師人」というなんらかの力(それが土師を統べる力なのか、はたまた葬礼にかかわる何かの呪力なのか分からないけれど)が受け継がれている可能性があるんじゃないか、と思われるわけである。

ちなみに、来目皇子の「来目」というのを地名の「くめ」と考えた場合、もちろん飛鳥に来目があるのだけれど、私は岡山すなわち吉備の久米も関係あるんじゃないかなぁと思うわけだ。
この吉備の久米を背景にした財力が来目皇子にあるとして、その財力基盤である吉備の在来勢力との婚姻によって、吉備の媛が生れる。それがやがては吉備嶋皇祖母になるのではないか、と想像することはできなくはない。
その場合、想定されている厩戸や来目の年齢よりも、ずっと年配である必要はあるが、そもそも彼らの生年月日って、まったくはっきりしていないのでね。

もうひとつ。
もしかすると、来目皇子は厩戸皇子より年上で、彼のほうが穴穂辺間人の長男であった可能性もあるかも。
厩戸は用明が愛でて「上宮(かみつみや)」にて養育した、と言われているが、それはすなわち母方に疎まれたということで(当時は母方で養育するのが当たり前だから)、そういう意味でもちょっと変な存在ではある。
一方、推古記の冒頭部分の、来目皇子の戦死にまつわるあたり、「すめらみこと」が実は穴穂辺間人であったならば(その可能性はけっこうあるかも、と最近思っている)、その長子たる来目皇子は実はもっと重要な人物であって、(だからこそ半島に送る戦力を率いる将軍として行動できるわけだ)しかし厩戸→山背大兄と続く血統が途絶えたことになっている書記編纂期に、実は厩戸の兄弟の血筋が連綿と続いていると暴露するのはまずかったのかも……なんて穿った見方をしてみたりして。

いずれにしてもなんでこんなに間人にこだわるかっていうと、穴穂辺間人も間人も、一時期、「すめらみこと」か「なかつすめらみこと」的な存在だったんじゃないだろうか、という疑問があるからだ。
というか彼女たちの呪力がなければ、用明も孝徳も「すめらみこと」になれなかったんじゃないか、というべきかな。
つまり、歴史の背景に女あり、ですよ。


nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問・資格(旧テーマ)

nice! 0

コメント 1

小路千兵衛

おめでとう御座います。今年も、読ませて頂くことを、楽しみにしています。
間人・土師のかかわりは興味深く拝読。
埴・土・祭司・・と なれば・・例の 茅の縣の須恵邑の 「 オオタ・タネコ 」
に繋がりはしませんか ? 甕・瓶の棺としての応用技術の分化が陶、だとすれば、祭司も生活習慣も皆・渡来 渡来人の古渡りは是とり、今来を否とする神話・・出雲・ 淡路・オノコロの戎流し 等 時代によって変化した証拠では?
と 思ったりしています。
又 来ます。続きを楽しみにしています。
by 小路千兵衛 (2006-01-05 19:57) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。