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殷周と春秋戦国の違いって? [中国古代史]

よく、夏殷周を理想の時代だったという書き方があるわけですが、これはもともと、春秋から戦国にかけて、諸国乱立してお互いに攻め合い、仁義もへったくれもあったもんじゃない状態の時に「昔はよかったなぁ」という感じで書かれているようです。
たしかに、春秋から戦国にかけての世の中というのは、弱肉強食の世界そのもので、そこに住んでる人たちは、いつどこから戦争しかけられるかって、戦々恐々としてたんだろうなぁという感じはあります。
でもその前はじゃあ理想郷だったかっていうと、そうでもないような気がしますよ。

というか、夏とか殷って、本当に狭い範囲しか支配してなかったから、夏だと春秋戦国の弱小国ぐらい、殷でも強国程度の大きさだったようなんですよね。
で、その回りの異民族と言われる国々とせっせと戦争していたわけです。
異民族で東夷北狄南蛮西戎で、だから「征伐」だなんて言い方していますが、なんのことはない、単に戦争しかけてうまく取れれば自分のもの、ダメなら引き返してきますって、春秋戦国となんら変わりはないように思います。
周になると、封建制(←この言葉にはひっかかりを感じるんですけどね)でもって、諸侯があちこちの都市国家に散らばって、それで支配範囲が広がったかっていうと、単に周の認識で「同属(同族じゃないのね)」と見なされるグループが増えたというだけじゃないかしら。
そのあちこちの都市っていうのは、実は新石器時代の後半には作られていた城址をもとに城壁をさらに高くして領主がでんと居すわるって感じなんですよね。
たぶんそれ以前は、こういう都市国家以外の、特に定住地を持たないグループがいたんだけど、殷から周へと広がっていく過程で、こういうグループがどんどん追い出されていって、都市が回りの農村を支配する形ができていくんだと思います。(このへん、西ヨーロッパの中世と似てるかも)
これは、なんというのかなぁ、単にみえないものが見えてくるようになるってのも、ひとつあるんじゃないかと思いますよ。
というのも、殷の時代には、すでに甲骨卜辞ってものがあって、文字は使われていたのだけれど、それは殷王朝内部だけの独占で、文字を使って書を残すという発想ではなかったのですね。だから、外へ向かって文字でもって宣言するっていうのは、殷にはないわけです。
これが周になると、青銅器に金文を鋳込むという形で、文字を使った宣言が、王朝外部に流れていきます。が、文字を鋳込む技術は周王朝が独占していたので、それ以外のところが真似しようと思っても、うまくいかなかったんですね。
でも、周王朝が没落していくと、当然、青銅器鋳造にたずさわる職人たちが四方八方に広がっていくし、文字が分かる人間も広がっていく。そして、諸侯同士で盟書を交わすのに、文字を使うようになってくる。王権に力がなくなるので、勢力均衡した諸侯同士の間で、何をどうしたという内容を文字で残さないといけないわけです。
これも、諸侯と、実際に文字を使って書いたグループはどうやら別らしい。つまり、もともと周王朝がかかえていた文字を書けるグループっていうのが流出していったってことですね。
この背景には、鉄器が普及して農業生産が画期的に増えて、あわせて開墾ができるようになって、土地も広がり、諸侯が自前で力を貯えることができるってのがあるようです。
その一方で、文字はまだ、使える人間が限られているわけで、そうなると、王も含めた領主の力のおよぶ範囲というのは、どうしても限定されます。というのも、文書で命令が出せないので、あまり遠方にいる配下は、いつ独立したり寝返ったりするか、わかんないんですよ。把握できない、ともいいます。理想的なのは、自分の居住する都市から、馬で一日でいける範囲ですね。このぐらいは文字がなくても十分に支配できます。
実は夏王朝の支配範囲がこの程度だったんじゃないか、と言われてます。
殷はもう少し広いようですが、そのぶん、支配が散漫になって、大きくなったり小さくなったりとしょっちゅう支配範囲が変わっていたみたいなんです。
周になると、諸侯って意識がかなりできてきて、これが王の支配に属しているうちは、それぞれの諸侯の支配圏も含めて王の支配圏って言えるんですが、王権は簡単に崩れますから、そうなったらそれぞれの諸侯が半独立するのは当たり前なわけです。
独立させないためには、諸侯に王のもとにやって来させて、王の権威を見せつけ、ひれ伏させ、かつ、褒美を与えて王に服属してるといいことあるよ~と、飴と鞭を使い分ける必要があるわけですが、そのためには、諸侯が王のところにやってこれる距離にいないといけないわけです。それが広がりすぎちゃうんですね。
結果、やっぱり都市諸侯が半独立してそれぞれの地域を支配するわけで、それって実は、夏でも殷でも同じだったんじゃないかなぁって感じです。

以前は、中国の古代といえば黄河文明で、黄河の中流から下流にかけての地域で文明が発達して王国ができてきたって考えられていたわけですが。
現在では、黄河流域にまさるとも劣らない文明が揚子江(長江)流域にも広がっていて、しかも長江流域は稲作農業ですから生産性も高く、それぞれに国家らしきものはできあがっていたようなのです。
すでに殷代には、文明から隔絶していたと言われていた四川盆地にも高度な文明を持つ国家の萌芽らしきものができあがっていましたし、長江中流域には楚のもとになるグループが、下流域には呉越のもととなるグループが、それぞれ城壁をめぐらせた都市をいくつも作っていたわけです。
そこからでてくる出土品も、たしかに夏や殷の影響は受けているものの、地方性も打ち出していて、技術的にも素晴らしいものがあります。ということは、生産性が高くて、余裕があったわけですね。
そういうグループが、たまたま文字を知らないがために、史書にでてこなかっただけ、とも言えるのです。
たまたまでてくるとしたら、夏なり殷なりからみた「蛮族」として一方的な征伐の対象として描かれていたわけですが、実態は違ったんじゃないかなぁって思います。

それが、把握できる範囲が広がって、文字の使用も広がって、お互いの行き来が明確になってくるのが、春秋戦国時代なんじゃないかな、と最近思ってます。


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