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記紀はなんのために書かれたのか [問題提起]

実は突然、膨大な(^_^;)資料が降ってきて、読むのに手間取っています。
超(←難解というよりは、解釈拡大しすぎという感じの)本も多いし(-_-;)。
そして、古事記と日本書紀を取っかえ引っかえ読み直しては、あーでもないこーでもないと……書き込むまでにちょっと間があいてしまいましたが。

ともあれ、2005年がはじまりました。ぼつぼつという感じですが、また思いついたことを書いていこうと思っています。

さて、さまざまな日本古代史に関する書物を読みますと、まるで当然のことのように、「ここの部分は歴史じゃなくて神話だから、ここで書かれている人物は実在しない」とか、書かれてます。
神功皇后は実在しないとか、神武天皇と崇神天皇の間に八人の天皇も実在しない、とかね。
実在しないというのはどういう意味なのか。
もちろん、文献上であらわれただけの名前が、歴史的には生存したことがなかった、という意味なのでしょうけれど。
それって、言い切っちゃっていいことなんですか、と思うわけです。
たとえば、平凡社の百科事典の古事記の項目では「これまで古事記は史書とされてきたが、全巻ひっくるめて本質的には神話とみなしたほうがよい」とかね。
どうして「みなしたほうがよい」なのか、理由がわからんわけです。
もちろん、神話部分が含まれるというのは分かります。いくつかの神話要素から構成されていることも分かる。
でも、そうやって語り伝えられたものを「古事記」という形にするのは、史書を作るという作業ではないのかな。それすらも「神話」にしちゃっていいのかな。

たとえばシュリーマンの考古学。
はたまた神話世界の洪水物語。
物語的に語り伝えられてきて、「あれは神話」「あれは作り事」とされてきたことが、考古学的に証明されて、実は本当にあったことなんだってのは、ちょっと考古学かじっているといっぱいでてきます。
文献的にどうなのよって思ったことでも、追っかけていくと実在が証明されたりね。
はたまた、『ルーツ』が証明する、「口誦」の神秘。文字文化のない社会において、口から口へ伝えられたものごとが、驚くほど間違いなく何世代にも渡って語り伝え得るということを、あの伝記は証明していました。

ゼロから一人の人間を作り出すことは、実はとても大変なことです。
存在したことのある人の生涯を、作り替える、適当に改竄することはできると思うけど、まったく存在しないところに、一から「こんな人」と想定して作っていくということは、それが記紀でなくとも、ちょっとありえないんじゃないの、と思ってしまうわけです。
語り伝えられていること、というのは、実はとても重要なことのように思う。
だから、私は記紀に書かれている「天皇」たちは、それが天皇であったかどうかは別にして、実在していた、と考えています。

もし実在しないというのなら、実在しない人物を捏造するだけの理由を、きちんと提示してほしいんですね。文書として残すというのは、口誦で残す以上に大変な作業であったと思われます。特に、記紀編纂当時は、まだ文章を書ける人間が限られていたはず。おそらく当時はまだ、日本語表記というものも確定していないし、借り物の中国の字体を使って、筆記用具だって紙にしろ筆にしろ墨にしろ、みーんな舶来品ですよ。これを使っておそるおそる文章にするわけです。
あだやおろそかに、いない人間でっちあげられるとは思えないのです。
それでもでっちあげなければならない事情はあるかもしれない。だとしたらその事情を推理するぐらいのことはしてほしいんですね。

それは結局のところ、記紀は何のために書かれたのか、ということを追究してほしいということです。なんかこの基本部分が欠落しているものが多すぎる。
古事記と日本書紀、現存しているものは、原本ではありません。写本です。
写本の年代も中世です。10世紀まではさかのぼれない。
そういう形で残っている、おそらくは日本最古であろう書物とは、そもそもなんなのか、ということを、きちんと語ってほしいのです。
なんか、歴史学そのものが、そこんところで、黙して語らずって感じで、気持悪いなぁ。

一方で天皇陵と呼ばれる古墳群が宮内庁の管轄になっていて、考古学のメスがいまだにいれられないという事情はあります。
記紀に関する学術的成果が、なんらかの形でストップを受けることもあるように見受けられます。
それも困った問題ではあるけれどねぇ。

というわけで、果たして記紀はなんのために書かれたのか。

自分でもきちんと答えがでているわけじゃありません。

たとえば。
古事記に書かれている万葉仮名は、万葉集と同じ、百済経由の中国南方読みが基本となっている。
一方、日本書紀で用いられている万葉仮名は、中国北方の読みを基本にしている。
しかし、養老私記では南方系の読みらしい。

養老私記ってのは、日本書紀ができあがってから、最初に行われた講筵で作られた注釈記みたいなものだと思うんですが、こいつはまだ、南方系なのですな。
養老のあとは、弘仁年間まで講筵は行われてません。で、弘仁以降は、大体30年ごとに講筵が行われているんですよ。たいがい、2~3年かけて、日本書紀をぜーんぶ読んで、読みのわからないところとかチェックして、あーだこーだとやるらしいです。それが終わると、歌会をやって、その記録も残っています。

つーことは、日本書紀が宮廷に伝わっていて、当時の宮廷人が(すべてはとは言わないが)日本書紀を読むということはなされていたっぽい。
で、日本書紀の編纂に関しては、どうも天武年間にあれこれでてきたのがそれじゃないかなぁって推定されているんですけど、詳しいことはわからない。古事記と違って序文がないですからね。
でも出来上がりに関しては、続日本紀に書かれているので720年(養老4年)だとはっきり分かっているわけです。
ちなみに、日本書紀や続日本紀などをあわせて六国史といいますが、その中に古事記ははいってません。
古事記は序文から712年(和銅5年)に献上したことになってますが、続日本紀の和銅年間には古事記献上の記事はありません。
ついでにいうと、古事記と日本書紀は同じ内容を扱っている部分が多々あるんですが、もちろん、使用している仮名が違うということをおいても、一字一句違わず同じ、という文章はほとんどありません。日本書紀はもとになる資料を並記する方法(一書に曰く、という、あれです)を取っていますが、その一書の中に、これは確実に古事記だ!というものはありません。

そう、つまるところ、古事記は日本書紀のソース(原資料)になってないわけですよ。
(そのくせ、「古事記の中・下巻は、歴代天皇の系譜やおもな事跡に関する簡単な記録と、歌謡を含む物語部分からなるが、前者が帝紀、後者が旧辞を指すというのが通説である」とか言い切っちゃうんだなぁ←平凡社百科事典「帝紀」項目)
(はたまた、「編集に使われた資料は、古事記のように特定の帝紀や旧辞だけでなく、」とかいっちゃってるんだなぁ←平凡社百科事典「日本書紀」項目)
古事記そのものは、語り伝えられていくうちに、誤りもあれば齟齬もあるので、そこを整理して一本化したぜ、と序文で明記しているので、文体を整えることも含めて、ソースとなる原資料に手を加えた可能性は十分にありえるわけですが。
日本書紀はそういう作業を「一書」に関してしたか、というと、していないと思うのです。だって、作業したんなら、もっと整然と統一が見えるように手を加えると思うし、そもそも一書形式で並記する必要ないですからね。
少なくとも日本書紀で「一書に曰く」と言われて引用されている部分は、ほかとどのように齟齬があろうともそのまま載せるぞ、という編集者の意地みたいなものが感じられるわけですよ。
そこに、古事記の文章は、そのまま載っていない、というわけです。

ここから、二つのケースが想定されます。
その1.古事記は、日本書紀編纂者が、原資料として使うに足りないと判断して、原資料に採用されなかった。
その2.古事記は、日本書紀編纂当時、まだ献上されていなかった。あるいは献上されたけれど、私的なものであって、資料とすべく公にはされていなかった。

その1に関しては、記紀を読み比べた印象として、日本書紀編纂時に古事記があったら、絶対に一書には使うんじゃないかと思う、としか言いようがないです。いや、こういう形で書かれているものがあって、絶対に使わないってのは、およそないだろうと。
そもそも、資料として提出させたものに関しては、なんらかの形で、一行なりとも引用してるんじゃないかなぁと想像しちゃいます。提出するほうだって大変なわけですよ。おそらく自分とこの一冊しかない原本を全部写本して提出するんだと思います。それってすごい手間だし、そうやってだしたあげくにまったく使われてなかったら、ブーイング出るんじゃないかな(^_^;)。
その2は、要するに序文と実態が違うということになります。こっちは問題が多い。なんでかっていうと、太安万侶はどうやら実在したらしいけど、稗田阿礼に関してはまだ、どんな人物なのか分かってないんですよね。天武の舎人って言われているけど、日本書紀の天武年間にもまったく名前がでてこないし、そもそも稗田氏を名乗るものがいないんじゃなかったかしら。
それで稗田阿礼が習い覚えたものを、太安万侶が筆写したということになっているわけですけどね、これを天皇に献上したってことになっているわけですけどね、それが日本書紀に利用されていないわけですよ。
そして献上したんだったら、日本書紀の資料に使われないと、太一族(多氏)は怒るんじゃないかなぁ(^_^;)。怒らなくても拗ねるよね。しかも太安万侶の子孫の多人長なんかは、安万侶自身が日本書紀の編纂に参加したとか主張しちゃってるわけです。参加しているのに、使わないはずないよなぁ。

そんなわけで、古事記に関しては、成立年代そのものが、そもそも疑問噴出なんです。
そして日本書紀はね……という話は、また項目を改めることにしましょう。


息長に関する考察 [問題提起]

息長と書いて「おきなが」と読みます。
この「おきなが」について、ちょっと考えてみたい

まず、神功皇后の名前が「おきながたらしひめ」ですね。
いや、この人、実在しないともっぱらなんですが。
それもどうかなーと思う。
ゼロから人の名前や実績を作るって、けっこう大変だと思うのよ。
何かしら、実在の人がいて、それをモデルにして変容はさせた可能性はあると思いますが。
で、古事記ではですね。この人、いきなり登場するのは、筑紫(福岡)の香椎(かしい)です。
彼女のかわいそーな夫である仲哀天皇は、下関の豊浦にいたんだけど、そのあと香椎に移っています。ここで天皇さんが琴をひいているとですね、いきなり、奥さんの息長タラシちゃんが神掛かるわけです。
で「ここの西に宝の国があるからとれ~」と言うのね。
でも仲哀は南の熊襲を平らげようとしていたので、「西には海しかないから、そんな神様信用しない」と言うわけ。(たしかに福岡あたりから西をみても、国はなさげですね)
すると、神功皇后のついた神様が怒るんですな。
で、なぜかここに、武内宿禰(たけのうちのすくね)なる人物がおりまして、仲哀さんに「琴ひきつづけましょーよ」というんです。彼は「さにわ(審神かな)」としてその場にいたようです。
そしてですね……いきなり、琴の音がとぎれましてですね、おそるおそる灯火かかげて見に行くと、仲哀さんはあわれお亡くなりになっていたわけですわ。
さて、神がかりする神功皇后に、その神の言葉を言い伝える武内宿禰というのは、なんとなく、卑弥呼とその男弟のペアのように受け取れます。
そんで、こん時神功皇后は妊娠してたんだけど、「おなかの子が跡継ぎじゃー」という神様の言葉にしたがって、妊娠したまま新羅征伐(をいをい)にいっちゃった。
しかも、戦争してる間、子供が生れないようにと石を抱いて(んな馬鹿なっ)そのせいで、応神天皇は母親の体内に二年半とかいたらしい(爆)。
ま、それはさておき。
宝の国は新羅だったようですね。

そこでまた、息長に戻ります。息は「おき」と読むけど、「いき」とも読めるよね。
そうすると、息長という氏族は、壱岐とか隠岐とかに関係するんじゃないかなー、と思ったりするわけです。
壱岐といえば対馬と並んで朝鮮半島と北九州を結ぶ路線の中にいます。
古くから、「倭」と呼ばれる人々が、この地域を包含していたらしい。
というか、「倭」のおおもとは南朝鮮(それが伽耶連合なのか、それとも伽耶ができて追い出された海辺の人々なのかはさておき)で、さらに対馬と壱岐を包含して、さらには北九州から長門・隠岐あたりまでは勢力範囲だったんじゃないだろーか。もちろん、それは支配していたという意味ではなく、「自由に航海できる」って意味での勢力範囲、ですがね。
そう、彼らは海を渡る部族だったのであります。

で、なんで壱岐にこだわるかっつーと。
ここに月読社があるからなのだ。
というか、本来の月読って、ここの神様なのだ。
そう、天照大神と月読と素盞鳴の、あの月読ざんすよ。
そもそも、記紀神話の中でも、エピソードすら語られない月読。
それなのに天照の弟として、三貴神の一人となる月読。
あまりにもエピソード多すぎてごっちゃな素盞鳴と対照的な月読は、どうして三貴神の一人に取り上げられたんだろう。
のちに、天照信仰は、伊勢を中心にして、天武朝に大がかりに作られたらしいんですけど、そのときに、天照の弟が月読になった。けど、エピソードはなし。ただ、弟がいるだけ、なのね。
でも、姉と弟っていうペアは必要らしい。(弟二人っていうけど、素盞鳴は明らかに別系列だもんね)

この記紀の三貴神設定そのものが天武期であるかもしれないわけですが、じゃあどうしてそこに、月読をいれなくっちゃいけないのか、というのが、ずーーーーっと私の謎だったのです。
すんげー謎。
そりゃぁ、日と月で対応してなきゃいかん、ちゅうのはわかるけどさ。
ほかにほとんど、祀る部族もない、壱岐の神様がなんで? とは思いません?

で、これがですね、そもそも神功皇后は壱岐の出身だったのよ、なんてーことになると、ちょっと面白いかもと思った次第でありんす。
まぁ、実際、壱岐には神功皇后を祀った聖母(しょうも)神社なんかありますけどね。
それにしても、神功皇后と武内宿禰のコンビが、絶対に「できてる」ように思ってしまうのは、これはただのヨコシマでしょうか、そうでしょうねぇ……。

さて日本書紀では、神功皇后の名前は気長足姫尊であります。もちろん「気長」は「おきなが」と読むのですけどね。
で、仲哀天皇、いきなり、角鹿(つぬが→敦賀)にいきます。しかも行宮(かりみや、だそうだ)をたてて、これを笥飯宮(けひのみや)といいます。
それから南の国を巡回するといって、紀伊国へいきます。
すると熊襲が反乱起こしたというので、船にのって穴門(あなと→山口県豊浦郡あたり)にいきます。
そして、敦賀にいた皇后に、穴門にきてくれ~というのですね。

う~ん、そうなると、仲哀はむしろ、越の人なのかな、とも思いますねぇ。
越と息長(琵琶湖周辺)という関係は、継体とその母親なんかの関係とも似てますし。
まぁ、琵琶湖周辺にいた息長が、そのもとはどこだっただろうという推測として、壱岐とか隠岐というのは、ありえないことはないと思いますけどね。
というのも、記紀で最初に息長がでてくるのは、実はこの神功皇后ではなくて、垂仁天皇の時なんですね。
垂仁天皇というと、皇后佐保姫が、兄の佐保彦と夫の垂仁天皇とどっちを選ぶかと迫られて、兄を選んでしまうという悲哀の話が伝わっていますが。いまわのきわに、「自分のかわりに、丹波(たにわ)のヒコタタスミチノウシの娘を」と言うのです。
で、ヒコタタスミチノウシというのは、サホヒメの異母弟になりまして、氷羽州(ひばす)姫を初めとする、このミチノウシの娘たちは、サホヒメにとって姪に当たるのですね。
(氷室冴子さんの銀の海...コバルト文庫は、このへんの人たちが入り乱れる古代ロマンで、たいそうおもしろいし、とてもリアルなので、一読の価値ありですよ♪)

息長タラシは、このミチノウシの異母弟の曾孫になります。
そしてミチノウシの母親が、息長水依姫なのですな。
で、この息長水依姫は、天御影神の娘だと古事記はいってます。
一方、息長タラシの母親は、葛城の高額(たかぬか)姫だといいます。

サホヒコとサホヒメの母親は、春日の建国勝戸売(たけくにかつとめ)の娘サホの大闇見戸売(おおくらみとめ)とといいます。

このへんの、息長と、春日・葛城との婚姻関係というのが、けっこう、おもしろそうですね。

なんとなく、葛城ってのが、かなり重要なポイントなんじゃないかと思っていまして。
つまり、天皇が天皇であるという条件の一つに、「葛城の娘」ってのがいるんじゃないかと思っているのですよ。
これはまた、別項目をたてて、じっくり妄想してみましょう。

というわけで、息長はなんだかしりきれとぼになっちゃいましたが、このへんで。


任那と鉄と [問題提起]

まぁ、ふらふらと日本古代史の続き。

「任那(みまな)」というのは、日本人だとわりと「任那日本府」とかで「高句麗好太王碑」とかとセットで日本史で勉強した記憶がある……はず。(なくても許すぞ)
これに関しちゃ、日韓併合時代に、好太王碑(いまでは、広開度王碑と言われる)の碑文を改竄した云々なんてーおろかしい噂もたっておりまして、早い話が、そんな古代に日本が朝鮮半島を征伐しにいった、なんて、あほんだらな~、ということになっております。
でも記紀では「三韓征伐」「新羅征伐」みたいな言い方をしておりますのよ。
このへんの言い方に関しては、ちょっと腹案があるんだけど、それはおいといて。

現行、「任那日本府はなかった」ってことで、日韓双方の歴史家の意見は一致しているようであります。
任那日本府ってのは、任那(朝鮮半島南部の、釜山に近いあたりと想定されている)に日本政府の出先機関があって、そこに兵力も蓄えられていて、そいでもってあれこれ朝鮮半島で日本兵が戦ったと思われていたらしいんですな。(まぁ、それらしい記述ではある、たしかに)
しかし、そもそもそんな出先機関作るような政府が、当時の日本のどこにある~ってことで。
いや、そもそも政府あったんかいな、という感じですね。

まぁ、政治的な意味合いもあって、この「任那日本府」は学会としては早めに引っ込めたはずなんですが、どっこい、けっこう長いこと教科書に残っちゃってて、それでいろいろと問題にもなりました。はい。

で、現在では、この任那というのは「金官加羅」だろうということになっています。
金官加羅というのは、朝鮮半島南部に、結局、国家形成に至らなかった、加羅もしくは伽耶と呼ばれる地域があって、その中のいくつかのグループのひとつであります。ほかにも、安羅とか多羅とか、大伽耶などなどありまして、そう、「倭の五王」の「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓なんたらかんたら将軍」みたいな称号がありましたが、この中の「任那」「加羅」なんとか韓あたりは、みんな伽耶のそれぞれの小国群をさしてるんだろうということに、大体、落ち着いています。
ま、なんとなく、秦韓は辰韓、慕韓は馬韓なんじゃないかって説もあって、そうすると、任那加羅あたりは弁韓なので、それって三韓全部じゃん、ずーるーいっっってことになると、思うな。
一応、中国の史書で、こういうふうに称号あげたよ~んといってるんだけど、どうよねぇ。

それはさておき、この任那であるところの金官加羅を含む伽耶全域は、かつて弁韓と呼ばれた地域とほぼあたるだろうと言われております。
で、この弁韓てーのはですね、鉄の産地なんですわ。
しかもこの鉄は獩や倭も採りに来る、と言われているばかりでなく、楽浪郡あたりにも運ばれていたらしきことが史書に書かれてます。
つまり朝鮮半島南部は早くから鉄製品の産地として名高かった、というわけですな。

そういう地域が、国家形成されずに、残っているわけです。
誰もが欲しいよね。
そんなわけで、新羅も百済も、加羅を併合しようと、どんぱちやってきます。
これの尻馬に乗ったのが、倭、というあたりが真相に近いんじゃないかなぁ。

ちなみに倭ですが、わたくし、近畿大和政権とイコールとは思っていません。
あれは「倭の別種」と言われた日本であって、倭は九州王朝だろうと思っています。
神功皇后にぶっころされたっぽい仲哀天皇(この名前からして、すんげーかわいそうだよねー)なんかは、この九州王朝な人なんじゃないかと思いますな。
んでもって、神功皇后なんて、もしかしたら、伽耶あたりの小国のお姫だったかもしれず。
そいで、自分とこ助けてもらおーと思って、倭王と結婚までしたのに、兵力出してくんないってんで、怒って旦那ぶっ殺して、自ら兵力持ってでかけていった……と考えると、なんとなく、納得いくんですけどね。
そこに介在する武内宿禰も、どうやら渡来人らしいということになっているようですし。

まぁそんなことをつらつらと考えてみるのも楽しいもんです。
平安朝を開いた桓武天皇が、これまた母親が百済系で、名前もなんだか百済っぽくて、すばらしく渡来な匂いがするので、この桓武までは、渡来系二世とか三世あたりが、勢力持ってる巫女と結託して、大王の座を争ったぐらいに考えてるんですよね。
大体、日本古来の家族制度は母系だし、女性の墓が独立して存在することからも、女の地位はかなり高かった……というか、ある種の女の存在なくして天皇にはなれなかったんじゃないかな、と思ってます。

その背景に、常に任那の鉄(軍事力)があるわけね。だから、古代日本においては、表の海岸ルートは、瀬戸内海ではなく、壱岐・対馬・出雲・丹後・敦賀・越というルートだと思われます。
応神にいたって、住吉の海軍力を握って、瀬戸内ルートを制覇して、難波を出城(でじろ、だと思うのよ、難波は)にしたんじゃないかな。
それより前の、あの大和の地域は、果たしてどれほどの権力が握れただろうか。

ただ、宗教的な基盤はあったわけで(三輪の大物主が古そうだ)そいつを継承しないと、本当の意味で日本を制覇することができなくて、じたばたしているうちに、ライン途絶えて、敦賀から継体がやってくる。
この人はなんだかもう、ストレートに新羅か高句麗あたりから渡ってきていそうですよね。
てなことを、つらつらと考えているもんだから、現在の課題は……。

キーとなる巫女王の系譜探し。
記紀に見られる帝王の子供たちの命名に、何か謎はないか。(よく、乳母の名前がつけられるって言い方するんだけど……それ、おかしい気がするのよね)
そもそも、天皇になるってどういうこと?(大嘗会の記載は、天武天皇がはじめてなんざんす)

このへんが、すんげー気になるところ。

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で、タイトルとはちょっとずれますが。
この記紀にみられる皇子たちの命名に関して、とてもおもしろい説があったので、ご紹介をば。
初期天皇后妃の謎―欠史八代...
この本は、日本古代史とアイヌ語サイトの管理人さんがおかきになったもので、たまたま縁あって手に取って読む機会があったのですが、なかなか示唆的なのです。
それはつまり「妻方の親から名前を受け継ぐ」つまり、入り婿になる、ということですね。

これは巫女王の系譜探しと、皇子たちの名前ってことで、つながる疑問にひとつの答えが出せるんじゃないかと思うわけです。
たとえばスサノオなのですが。
クシナダ媛の両親、アシナヅチ・テナヅチは、またの名を「稲田宮主簾狭之八箇耳(いなだのみやぬしすさのやつみみ」と言うのであります。
あるいは、アシナヅテナヅの妻が、稲田宮主簾狭之八箇耳だったりする。
クシナダは「奇しき稲田」なので、その両親が宮主となるわけですが、そうなると、そもそもの名前は「スサ」の八つ耳」なわけね。
つまり、スサノオのスサは、妻の親(父親なのか母親なのか、一書によって違うんだけど)の名前をもらっていることになる。

こういう事例が、欠史八代にもみられると、おっしゃるわけで、その謎の解明については、上記のご本もしくはサイトをごらんいただくとして。

なんとなく、「入り婿しないと」というのが、キーポイントな気がしてきたんですよ。


飛ぶ鳥の明日香 [問題提起]

別ブログで書いていたネタを引っ張ってきました。
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ここのところ、だらだらと日本古代史の本を読んでます。

その中で、かーなーり強い疑問が沸き上がるものは、もちろんいっぱいあるのだけど(^_^;)、とりわけ気になっているのが「飛鳥」とか「日下」とか「春日」とか「大和」とかの言葉。
えぇ、地名です。
これらの言葉は、「二字で構成されている」「漢字本来の音訓にそぐわない読みである」というのが特徴。
二字に関しては、ある時期、地名とか人名とかを、「佳き二字に設定しましょう」なんてー運動があったせいらしいんだけど。(泉を和泉とかね)
そのまえに、どうしてこんな読み方するんだよー、という疑問が死ぬほどあるわけね。

で、「日下」はもともと「草香」らしいんだけど、そして「飛鳥」は「安宿」らしいんだけど、春日や大和は不明。大和はどうやら「和氏(やまとうじ)」という氏族がいて、これが渡来系らしいときいて仰天(だって、大和系列はもともと土着だって説が強かったんだもの)してますが、春日なんかは比較的新しい地名だから、まぁ、そいつは棚上げしてですね。
日下であるところの「草香」に関しても、すんげー興味津々なことがあるんですが、まずは飛鳥にいってみます。

飛鳥

これが「安宿」だってのは、安宿媛(あすかべのひめ)なんてのがいるから、間違いないらしい。で、どうして「安宿」が「あすか」かっていうと、どうも古代朝鮮語で、これを「あんすく」と読んだからだろうという説が有力になっている。
なるほど、「安宿」は古代朝鮮系列、それはいいですよ。というか、そうでしょう、としか言いようがないんだけど、じゃあ、どうして「飛ぶ鳥」と書いて「あすか」と呼ぶようになったの、というあたりは、まだ誰も教えてくれないんだな。

なので、飛躍してみようと思うわけです。
伽耶地域(朝鮮南端部分、悪名高い任那日本府があったかどうかと騒がれている地域)は、結局、国家の形で集合することがなかったのだけど、小さい国というより諸村連合みたいなものが群雄割拠していたっぽい。そこの古い都というのは、どれも中央に川が、それも大河でなく小さな川が流れていて、東西に丘陵がある盆地で、てな話を読んで、う~む、これは飛鳥に限らず、日本古代の都と呼ばれるあたりはそういう感じだよなぁと思うことしばし。

これはたぶん、四神相応、つまり風水にのっとって都になる土地を定めていると思われるわけですが、それこそが「安宿(安息の地)」なんじゃないかなぁ、なんて思ったりして。
で、この安宿を定めるために、たとえば鳥を飛ばして決める、なんて巫術があったら、面白いなぁと思うわけです。

ノアの方舟の話でも洪水のあと、まず人間が住めるほどに水がひいているかどうか、鳥を飛ばして確認するよね。
あーゆー鳥を飛ばす話ってのは、あちこちにあるんですが。
日本じゃ八咫烏の話しかないみたいだけど、あれもまぁ、いい場所を先導する役目ではあるよね。
そんなふうに、鳥を飛ばす呪術、それが「とぶとりのあすか」という枕詞に関係しないかなぁ、なんてぼんやりと思ったり。

まぁここんとこずっと、朝鮮半島の出自といえばツングースで、ツングースといやぁシベリア方面まで広がっていて、そのシャーマニズムが有名だよねってことから、ぼけぼけと考えているわけですわ。
基本的には古代の朝鮮半島で、ツングースと言われているのは高句麗と百済であって、新羅はちがうぞーという説もあるけれど、どうやら昨今、新羅にもかなり北方遊牧民族系がはいりこんでいるってのが実証されてきているらしい(とりわけ、考古学的に)。

遊牧民族というと、なんとなくモンゴル系を考えてしまうのだけど、日本に直接影響してきたのは、ツングース系のようです。だから、ツングース系のシャーマニズムはもうちょっと勉強してもいいような気がするのね。

なので、しばらく飛ぶ鳥のネタを追ってみようかと思っているわけです。

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てなことを書いてました。う~ん、読み返してもやっぱりおもしろい。
このネタ、追っかけてみましょうかねぇ。


天地のはじめ [古事記解体]

「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原に成りませる神の名(みな)は、天(あめ)の御中主(みなかぬし)の神、次に高御産巣日(たかみむすひ)の神、次に神産巣日(かむむすひ)の神。この三柱(みはしら)の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身を隠したまひき」

古事記の序文はとりあえず、おいといて、冒頭はこれから始まる。
で、これから古事記をいろいろと解体してみようと思うわけだ。

まず、万世一系神話は、さよならする。
日本古来の神道、なんてー感覚も、さよならする。
なんか感覚的に違うものがあったら、「外来かな」と疑ってみる。
このへんから始めようかな。

『古事記』の世界では、縄文時代らしい話はほとんどない。
この縄文時代、日本では紀元前約一万年ぐらい前から始まるらしい。もちろん、それに先立つ旧石器時代があって、まだ大陸と地続きで、マンモスなんかがいて、人々が足を使って移動できる時代ってのがあったわけだが。
この日本列島は、ユーラシア大陸のどんづまりで、そこから先は本当に海だったから、あっちこっちから人々が渡ってきてとどまったらしい。
でも、どれをとって、「日本原住の」ということは、そもそも言えないっぽいんだよね。
旧石器人と縄文人には、大がかりな交替は見られないが、弥生人には見られる、つまり、弥生人は朝鮮半島からの渡来だった、というのは、だいたい、認められてるんじゃないかと思うんだけど、その場合、弥生人がそれ以前の縄文人を駆逐したわけではないから、縄文人と弥生人は混血していったと考えられる。

弥生人の到来は、稲作と支石墓をともなっている。これはポイントね。

ところで、古事記日本書紀にでてくるいろいろな神々について、偏見抜きで考えてみよーと思っているわけだ。
まず「天(あめ)」の、とか、「高(たか)」とか「神(かむ)」とか、頭についてるのって、あとからつけたんじゃないかなぁってこと。
「御(み)」も、そうだとすると。
なかぬし、むすひ、むすひって残るわけね。後ろふたつの「むすひ」は、そうすると対象だよねぇっと。

[むすひ][なかぬし][むすひ]
って、こんなふうにならんでるのかなー。
これが
[たか]  [あめ]  [かむ]
という感じかしら。

「次に国稚(わか)く、浮かべる脂の如くして水母(くらげ)なす漂える時に、葦牙(あしかび)のごと萌え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に天(あめ)の常立(とこたち)の神。この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき」

う~ん、四番目が、変。むっちゃ変。「うまし」は「美(うまし)」かなぁと思う。「あしかび」はもちろん、葦牙なんだろうけど、「ひこぢ」……「ひこ」は「日子」で「彦」だよね。いきなりこれだけ、万葉仮名っぽくって、印象違いすぎ。なんだこりゃ~って感じ。
これと一緒なのが、天常立神って、そりゃぁそもそもお対になってないでしょーって気がしませんかね。

最初の三人と次の二人、これらはいずれも独神(ひとりがみ)、つまりパートナーである女神がいなくって、子供もできることなく、ってことよね。そして「身を隠したまひき」……つまり死んじゃった、と。

「上の件(くだり)、五柱の神は別(こと)天(あま)つ神」
えっと、古事記の中には、天つ神と国つ神ってのがいるんだけど、そのうちの天つ神のそのまた「別(こと)」だってゆってるわけね。

「次に成りませる神の名は、国の常立の神。次に豊雲野(とよくもの)の神。この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき」
同じだー。まぁ、「国」は「天」とか「高」とか「神」とかと同じに考えていいと思うんだけど、「豊」はどうだろうねぇ。(←実は腹案があるのだけど、それはまたあとで)とりあえず問題提起。

そしてここから、また違うんだな。
「次に成りませる神の名は、宇比地邇(うひぢに)の神。次に妹須比智邇(いもすひぢに)の神。次に角杙(つのぐひ)の神。次に妹活杙(いもいくぐひ)の神。二柱。次の意富斗能地(おほとのぢ)の神。次に妹大斗乃弁(いもおほとのべ)の神。次に於母陀流(おもだる)の神。次に妹阿夜訶志古泥(いもあやかしこね)の神。次に伊耶那岐(いざなぎ)の神。次の妹伊耶那美(いもいざなみ)の神。
 上の件(くだり)、国の常立の神より下、伊耶那美の神より前を、あわせて神世七代(かみよななよ)と称(まを)す。上の二柱は、独神はおのもおのも一代とまをす。次に双びます十神はおのもおのも二神をあわせて一代とまをす」

最後が、イザナギとイザナミなので、「妹(いも)」とついてるのは、ペアリングの女性形であることを意味する接頭語だと考えられる。
そんで、「うひぢに」より前は、一人ずつ一代で、そのあとの十人は、二人一組にしてねってことね。

で、「一代」ってゆーと、これ代々つながっているように感じるじゃないですか。
でもそうすると、イザナギ・イザナミの前は、オモダル・アヤコシコネなんだけど、この二人がイザナギとイザナミのパパとママというわけではないらしい。
しかも、イザナギとイザナミに、天から地にくだっておさめろ~、と命令したのは「天つ神」なんだけど、これが天御中主なのか、天常立なのか、説明ないのね。

それにどうも、イザナギとイザナミってのは、そもそも淡路島地付きの神様だったっぽくって、「天孫降臨」というところの「天(あめ)」族とは関係なさそうなのだ。
でも、ここで、イザナギとイザナミによって、国作りの話を展開しなくちゃぁならない何かはあったんだろーね。

ここまでの神様(イザナギとイザナミ以外)で、重要なのは「むすひ」のお二人。
「むすひ」すなわち「魂」なので、あちこちで祀られているし、このあとも言及してくる。
それ以外は、名前でているだけで、どうも判然としないわけ。
意富(おほ)なんて、古代「おほ」国のことじゃないかなぁ、とぼんやり思うわけだけど。(そうでない名前もあるので、なんとも断定はしにくいなぁ)
そして、イザナギ・イザナミまでに、なぜこういう系列を作らなくっちゃいけなかったかも謎。

ただ、何もないところから、こういう神様の名前を出してくるわけじゃなかろう。
すでにあった神様の名前を、こうやって、系図にしてみたんだよね。
そしてこの神様たちはみんな、「身を隠したまひき」で、あっさり殺されちゃっているわけだ。
こーゆー神様いたんだけど、いまはいないよ~ん、てな感じでね。

これが古事記の冒頭部分です。
こんな調子で、少しずつ読んでいければいいなぁと思います。


ツクヨミの謎 [月読尊]

ツクヨミ、ツキヨミ、ツキユミ……。
この「月」を意味する神様の名前は、あまりバリエーションがない。
結局は「月を読む」のだ。
なぜ月を読むのか。
それは航海する上で必須だから、なのではないかと。

航海でもう一つ重要なのは、星である。
古くは「つつ」と呼ばれた星を祀る神様は、イザナキが禊で生んだ三神で、底筒男命、中筒男命、表筒男命といい、住吉神社に祀られている。
この住吉神社のあるところは、壱岐、博多、長門、摂津で、この本貫が壱岐なのか博多なのかはむずかしいけれど、そもそもこちらの神様である。(神功皇后の三韓征伐の時に援助した神様なんだな、これが)

で、月読ですが、これを祀る神社が、また壱岐にある。

壱岐月読神社


この月読神社を祀るのは、卜部氏である。
ついでにいうと、卜部氏は、伊豆・壱岐・対馬にあって三国卜部と呼ばれたらしい。
対馬では、太祝詞神社や能理刀神社を祭祀していたそうな。
さらに常陸の卜部は鹿島神宮の祭祀をつかさどっていたがそれはさておき。

記紀において、三貴神とあがめられながら、ツクヨミにはほとんど事跡がない。
わずかに残っているウケモチの神に関する事跡は、同じような話がスサノオのオオゲツヒメに関する事跡として古事記にある。
そしてウケモチの神に関しては、ツクヨミがこれを汚いとして殺したら、アマテラスが大層怒って、「お前と同じ場所にいたくない」といい、それで、日をアマテラスが夜をツクヨミがおさめることになって、二人はならばないのだ、という落ちがつく。

せいぜいがところ、この程度だ。
ツクヨミのおさめるところも、アマテラスとともに天にあげられた、というほかに、夜食国(よるのおすくに)という説と、滄海原(あをうなはら)という説があるけれど、夜食国が根の国ならば、これまたスサノオとかぶる。
つまり、大変に実態のない神様なのだ。

その後の天孫降臨に関しても全然でてこないし、ましてやスサノオ関係にも顔を出さない。

こいつはもしかして、大変に壱岐ローカルな神様なんじゃないだろうか。

航海の神様としても、住吉のほうが格が高い。しかも広範囲に広がっていて、後の世まで栄える。
それに比べると月読社は京都に勧請はされるけれど、大変にひっそりとしているし、その後も特別扱いされることはない。
アマテラスが伊勢に鎮座して、下にもおかないもてなしを受けるのとは好対照だ。
あるいはスサノオが、天上で、出雲で暴れることとも。

一体、なんだって、こんなに影のない月読が、三貴神として重要視されているんだろう。

奝念の「王年代紀」には、月読の名前がなかった。
ということは、月読のいない神代神話というものが、存在するかもしれない。
そこでは、アマテラスとスサノオは姉弟ですらないのだ。

ではなぜ、日本書紀には月読が登場したのか。
アマテラス信仰を宮廷の中心に据えるために、日とならぶ月が必要だった、という説もある。
日月神話というのは、世界のかなり広範囲に広がっているので、そのパターンに、それぞれの神を当てはめたのではないか、という推論も成り立つ。
そう、アマテラスとて、そもそもは伊勢の海士が信仰するローカルな神だっただろうから。
(そのもとは「海照(あまてらす)」だと思うのよ)

伊勢が天武の挙兵に重要な役目を果たしている、というのは有名な話だ。
実際のアマテラス信仰と伊勢神宮の成立は、天武期以降だろうというのが、昨今の学説の主流を占めている。
つまり、アマテラス信仰は新しいというわけ。
日本書紀は天武の命令によって編纂が開始されたというから、その当初から神代をアマテラス中心に書くことは可能だっただろう。

で、卜部は中臣なのである。
つまり月読を推す勢力というのは、中臣氏なわけだ。これはちょいと近江朝に近すぎて、天武期にはむずかしい立場にあったはず。
それでも鎌足の一統は、一部は藤原として華々しく開き、中臣もまた神祇をつかさどって、卜部とともにしぶとく生き残る。
月読の名前が、名前だけであろうと、とりあえず高天ヶ原のパンテオンで中心にいる三柱の神の一人として残るのは、そういう理由かもしれない。
その後、藤原は春日大社を本貫にしちゃうから、月読は忘れ去られたのかしらねぇ。

実はいま住んでいるところのすぐ近くに、月読社がある。
なんでこんなところに月読が、と思って調べ始めたのが、記紀にはまるきっかけだった。
いや、こんな関東のど田舎に月読さんがやってきたのは、これという理由もないようでしたけどね。
まぁでも、月読を奉じる部族が、このあたりに入植したのかもしれませんな。


素盞鳴尊の謎 [素盞鳴尊]

スサノオのミコト。
イザナキとイザナミの間に生れた、三貴子の一人で、アマテラス、ツクヨミについで、三番目ということになっている。
「なっている」というのは、たとえば、蛭子がいたりとか。ほかにも二人の間にいろいろ神は生れているのだけれど。
いや、そもそも古事記じゃあ、イザナキが一人で生んだことになっているけど。
とにかく、すったもんだの挙げ句に、三人生れました、ということになっている。

アマテラスとツクヨミは、日と月で対比していて、セットで生れてくる。
たとえば、古事記では、左目を洗うとアマテラスが、右目を洗うとツクヨミが生れてくる。
(イザナミを追っかけてヨミの国にいって、ひどい目にあって戻ってきてから禊をするんで、洗うという行為があるのだ)
日本書紀の一書には、左手に白銅鏡(ますみのかがみ)を持った時に生れるのが、大日孁尊。
右手に白銅鏡を持った時に生れるのが、月弓尊。

この二人とは別に、スサノオは生れてくる。
間に蛭子を挟んだり。
カグツチが生れてイザナミが死んじゃったり。
いろいろあるけれど、日月の次ということで三番目になるのに、スサノオときたら、性格が悪いのだ。
とにかく根国へいけ、といって、追いやられてしまう。
あるいは母親を慕って根の国へいくというけれど、とにかく、放逐されるわけですな。
で、この放逐に関して、スサノオはアマテラスのところへ挨拶にいって、ひどいことをしまくった挙げ句に、アマテラスが天の岩戸に籠もってしまって云々……という展開になるんですが。

放逐された先が、出雲、ということになっちゃうんでしょうか、この話。
ふつうに読むとそう考えられます。
なぜなら、アマテラスと誓(うけい)をしたあと、すぐに、もうスサノオは出雲にきちゃうんです。
まぁそもそも、イザナキの命令で根の国にいくはずだったのに、スサノオってば「衆神(もろかみたち)、我を根の国に処く」と言ってますから、やっぱり追放だと思うわけですが。
まぁその後、息子たちを諸国に放って、それから根の国にいった、という説ものせられてはおります。
この根の国は紀伊、というか熊野だ、という伝承は古くからあるわけです。
つまり熊野信仰というのは、死者の魂が熊野に集まるという伝承から成り立っているのですね。
ま、何はともあれ、スサノオは、高天ヶ原から放逐されて出雲に下り、やがては根の国におさまるという構図になっております。

一書によると、スサノオはいったん新羅にいったんだけど、「ここはどうも自分にはいて欲しくないらしい」なぞと言って、息子を率いて船を作って出雲へと向かいます。
このへんになるとだいぶん人間くさくなってきます。というか、いかにもありそうというか。どこかで聞いたことあるぞ、というか。
そうそう、あれですよ。神武が日向を逃げ出す時のセリフと似てますよ。

それはさておき、このスサノオノミコト、ちょっとおもしろいところに、おもしろい出方をしています。
それは宋史日本伝、です。
宋史というのは中国の史書で、正史の一つです。元代の1345年に成るとありますので、成立はかなりくだるんですが、宋時代の史料を多数使っているのだそうです。
それはさておいて、この日本伝で、宋の第二代皇帝太宗の時に、奝念という日本の僧侶がやってきて、「職員令」と「王年代紀」を奉った、とあります。
この王年代紀には神代の系譜も書かれていて、それが二十三世だということで、きっぱりはっきり、写し取られているんですが、「伊奘諾尊、素戔烏尊、天照大神尊」とありまして、スサノオがイザナギの息子で、アマテラスはそのまたスサノオの息子という設定になっているんですね。
(中国へ献上する史書なんで、アマテラスが女神じゃまずいって発想なんでしょーけど)

実は、遣隋使遣唐使、あわせて20回ぐらいあるんですが、彼等は国書を持っていっていない、ということになっています。
中国からみますと、日本からの使者というのは「朝貢使」でありまして、それ以外の方法で中国の朝廷と何らかの関係を持つことは不可能だったわけですが、大和朝廷側は、朝貢の事実を国書に記することをよしとしなかったので、朝貢の事実の書かれていない国書を献上するわけにはいかなかったようです。
したがって、日本書紀が選定されて天皇に献上されたであろう720年以降も、何度も遣唐使が海を渡っているのですが、日本書紀を携行していき中国の皇帝に献上したという報告はなく、中国側の史書にもそうした記録は残っていないのです。

奝念は藤原氏の人らしいのですが、出自についてはよくわからず、東大寺の僧で、入宋して新しい教義をもたらしたいと一念発起して、宗の商人の船に乗って中国へ赴き、宋の第二代皇帝太宗に謁見して、そのときに、「王年代紀」という書物を献上したことになるわけですが、これは中国側からすれば、国書を献上したはじめての日本の使者であって、これこそが正しい姿なのですね。
しかし、遣宋使というものは公には送られておらず、つまりは奝念は私費ででかけていったわけで、そこでやったことも大和朝廷には関係ないこと。
中国の史書には、もたらした国書からの引写しまであるというのに、日本側では黙殺であります。
しかも奝念さん、驚いたことに、中国の皇帝から、「法済大師」という称号と、紫衣までいただいています。
日本歴代の有名な僧侶をみても、中国の皇帝からじきじきに大師の称号をいただいているのって、この奝念さんぐらいしかいないようなのですが、そしてその後、東大寺の別当にもなっているのですが、奝念さん、大和朝廷には省みられることがなかったようです。

そうなるとこの「王年代記」というのは、日本書紀とは別に、中国に献上するために、奝念の周辺で新たに作られたものなのかなぁって感じもするんですが。
そもそも日本書紀というものが、朝廷以外のところにどのぐらい流出していて、国書として公に認められていたのか、とんとわかんないんですね。

ついでにいうと、奝念という僧侶がどのぐらい忘れ去れているかというと、この検索し放題のネット世界において、yahoo!で一件のみ、googleでは見当たらないというほどです。
いや、これはちょっとすごいな。
なんかスサノオから話がはずれてきているような気もしますが。

いずれにしても、イザナキのあとに、スサノオ、アマテラスと続く系譜というやつが、10世紀の後半に、捏造されたのにしろ、なんにしろ、厳然とあって、中国皇帝に献上された、ということです。
まぁ、宮中において、アマテラス信仰はいかほどのものであったか、という疑念はあります。
天武持統時代をみても、広瀬と竜田の神を祀るという記事はいやほどでてくるんですが、アマテラスというのは斎宮を任じて伊勢に放りこんで終わりなんですね。

そもそも日本書紀というやつは、卜部本といいまして、卜部家が伝えている写本しか残っていません。写本そのものの年代も決して古くはないようで、鎌倉時代のものや室町時代のもののようです。
もっとも、日本書紀が撰修されたという事実は、たとえば紫式部が「日本紀局」と呼ばれたように、平安朝の物語や日記の中にもでてきますし、弘仁年間以降、大体30年に一度の割りで、数年に渡って日本紀を講筵するという風習が承平年間ぐらいまではあったようで、その記録や、それに伴う宴席における和歌などが残っているので、間違いはないと思います。
卜部家に残されていた写本というのは、おそらく神祇伯家が持っていたものを写しただろうというあたりまでは研究されているようです。
でも、宮中に正本が残っているわけではなく、神祇伯-卜部系以外にほとんど流出もしていない、というあたり、何やら不思議な書物ではあります。

卜部といえば、中臣に率いられる祭祀集団で、そのもとは、壱岐・対馬にあります。
てーことは、由緒正しい「倭」人なわけです。
祝詞と亀卜が卜部の得意とするところ。
かの吉田兼好もまた、この家系の出身ですね。

壱岐・対馬といえば、またいろいろと謎を提供したい土地なのですが。
それはさておいて、強引にスサノオに話を戻してしまうと、どうしてスサノオは三貴子の一人なんだろうということになります。

系列というか、ネーミングからして違うよね。
というあたりは、また、次回にしましょう。ちょっと長くなりすぎました。


紀伊の国についての謎 [問題提起]

出雲~紀伊の流れで、特に紀伊について考えてみたいと思うのです。

まずはスサノオ系列。これは植林とからんできます。
一書(第四)にいわく、「素盞鳴尊、其の子五十猛神(いそたけるのかみ)をひきいて、新羅国にあまくだりまして、~~初め五十猛神、天降ります時に、多に樹種をもちてくだる。しかれども、韓地に植えずして、ことごとに持ち帰る。ついに筑紫よりはじめて、すべて大八洲国の内に、まきおおして、青山に成さずということなし。このゆえに、五十猛神をなづけて「有功(いさをし)の神」とす。すなわち紀伊国にまします大神これなり」
最初にでてくるのがこれですね。
スサノオが息子と一書に天から新羅にいって、そこから出雲にやってくる、という話です。で、息子のイソタケルは、筑紫経由なんですね。
ほかにもいくつかの書で、スサノオの息子と娘の話にからんで、植林がらみで紀伊国がでてきます。
紀伊国の大神が、スサノオの息子で、樹種(きだね)をもってきて国中を青山にしたんですね。

次に、神武東征です。
神武は、日向の国の吾田にいる吾平津媛を嫁にします。ということは、彼はその近くに住んでるわけですね。日向のうちか筑紫の近くか、とにかく、九州のどこかにいるわけです。
で、このあたりには君も長もいて、それぞれ村ごとに境があって、おたがいしのぎを削っている。で「自分の居場所がない」ので、塩土老翁に聞いたら、「東のほうに、天磐船に乗って、ニギハヤヒがたいらげた土地があるとさ」と教えてくれたんで、そこに行こう、という話になる。
つまるところ、九州じゃ土地も持てない名も立たない、どこか奪える土地はないかと東に向けて出発しますという感じですね。
で、まずは豊後の速吸之門を経由して、宇佐にいきます。
それから、筑紫国の岡水門にいきます。(この筑紫国は、九州全般ではなく、北九州を指しているのがよくわかりますね)
それから安芸、吉備とたどっていき、それぞれに宮を作って、何年もかけて兵力を整えて、いよいよ難波に近づきますが、ここでナガスネビコに阻まれて進めず、しかも長兄の五瀬命が矢傷を負って亡くなるほど。
こりゃ駄目だってんで、名草(和歌山)から新宮を経由して熊野にいきます。で、八咫烏のお導きでもって、山越えして宇陀に入ります。

いやはや、難波から大和にはいれないからって、ぐるっと紀伊半島一周して、よりにもよって、熊野の山越えです。
これが和歌山あたりから、高野山のふもとを経由して、あるいは吉野を通って大和に抜けるんならわかりますが、ぐるっと回って熊野といえば、紀伊半島をもう半周以上しています。
どうもなんか熊野にありそうな気がしてしまいますね。

で、仁徳天皇の話にぽんと飛びますが。
仁徳天皇の奥さんは磐之媛といって、葛城襲津彦の娘なんだそうですが、「公式には」天皇家でない娘がはじめて皇后になった例と言われております。(この件については、また別項で詳しく分析したいと思いますけど)
そしてこの磐之媛は、大変に嫉妬深い女性で、仁徳さんがまた、やたらあちこちの女に浮気して、後宮にいれたいといっても許してくれない。
で、磐之媛が「紀国に遊行でまして、熊野岬に到りて、すなわちそのところの「御綱葉(みつなかしは)」を取りてかえりませり」ということがあります。
その留守中に、仁徳さん、八田皇女というのをめしいれて、うはうはやっちゃうんですね。
で怒った磐之媛は「その取れる御綱葉を海に投げ入れて」着岸せずに、そのまま大津にいっちゃうんです。
熊野→難波→大津……この動きだけでも、とんでもないと思うんですが。
当時の熊野って難所だったと思うんですが、そういうところに奥さんがでかけている(たぶん、神事に必要なものだったんだと思います)のに、そのあいまに女ひきいれてちゃぁ、そりゃ怒るよな。
ではなくて。
磐之媛は大津から山背を抜けて倭に入り、自分ちである葛城を横目にみつつ、綴喜にいたって、「宮室(おほとの)」を作ります。これが筒木宮なんですが。
なんと、磐之媛は、迎えにきた仁徳を蹴って、「あたしの留守中に、女ひきいれたじゃないっ」と許さず、とうとう、その宮で亡くなってしまうのですね。

天皇家の出でない磐之媛が、夫の天皇をおっぽりだして、実家に帰って宮を構えてしまうというのもすごいけれど、仁徳はそれを迎えにいくのです。そして結局、磐之媛は戻ってこないんですが、磐之媛が亡くなるまでは、ほかの女性を皇后にすることができないのです。
このことに、「葛城」という出身と、「熊野に御綱葉を取りに行く」ということが、関係あるんじゃないかな、とちょっと思っています。
つまり、熊野の木から葉を取ってくるわけですよね。この木は、スサノオが息子の五十猛に命じて紀伊までもたらした、神聖なる木なんでしょうね。
そしてこの葉を取るのは、女性の役目なのかしら。
もしかすると、それは葛城という氏族にかかわりのある役目なのかもしれません。

葛城というのは、天孫一族よりずっと早くにやってきて、大和に根を張った氏族だと思います。
たぶん、磯城・葛城という感じで力があったんじゃないかな。
この連中が祀っていたのが、三輪の大物主なわけです。すなわち「大国」の主ですね。
崇神の娘ヤマトトトビモモソヒメがこの大物主の奥さんになって、という話がありますが、この婚姻なくして天孫族は大和を支配することができなかったんじゃないかなー、なんて思います。
神武の奥さんだって、事代主神(オオナムチの子)の娘ですからねぇ。
この大国系と婚姻しないと、天孫族は「おおきみ」になれなかったようなのですよ。
なんてことを、紀伊国と関連づけて考えると、ますます謎は深まるばかりなのですが。


たとえば大国(おおくに)という想像 [問題提起]

天皇という言葉は、実はけっこう新しいらしい。
天武天皇より前にはさかのぼらないだろうというのが、最近の学会の見解らしい。
それ以前になんと呼ばれていたかというと、天皇に「すめらみこと」とフリガナがふってあることもあるけれど、やはり「おおきみ」なんじゃないかと思う。

おおきみは、かみにしませば

なんていう歌もあったような。
で、この「おおきみ」は、複数の「きみ」の上にたつ、いわば統合的な首長だろうという説があるんだけど、それとは別に「大国(おおくに)のきみ」という発想も、ありえるんじゃないかな。

なんで「おおくに」かっていうと、まぁもちろん「オオクニヌシノミコト」というやつが存在するからってのもあるんですが。あと、「オオモノヌシ」とか「オオアナモチ(オオナムチ)」とかね。
これらが、どうも、アメ系(天照とか、天孫一族とか呼ばれる連中)より前に日本列島にいたのはたしかっぽい。
で、この「おお」の一族の大元をたどると、スサノオなんですが、この人が新羅からきたのは、まず間違いないと思うわけです。
そして、スサノオ神話を見ていて面白いのは、出雲と紀伊がつながっているのね。
実際、紀伊には出雲とと同じ地名が数多くあるといいますし。紀伊は出雲の分家っぽい扱いというのもあるわけですが、それはさておいて。
出雲と紀伊は、つながっていないわけですよ。当然、その間に畿内というやつが存在する。だけどそこはあとからやってきた天孫一族が奪ってしまったので、そこにまつわるスサノオ系の伝承は抹消されちゃったのかな、なんて思ったりして。

じゃあ、天孫一族がやってくる前、そこには仮称大国があって、それが出雲畿内紀伊と一体をカバーしてたんじゃないか、なんて考えると、なかなか面白いわけです。

これはなぜかというと、天武天皇の名前が「大海(おおあま、おおしあま)」なんですね。
天皇の子供たちに、大がつくケースというのは、たいがい、小または稚(わか)と対応しています。大碓・小碓とか、大初瀬・稚初瀬とかね。碓とか初瀬とかいう名称の子供が兄弟でいる時に、長兄のほうに「大」がつくって感じでしょうか。
でも、大海の場合は、それがいないんですね。で、彼が天智と兄弟ではないとすると、系列が違うとしたら一体どこの系列だろうということになるわけで。
もちろん、バックボーンとしての美濃尾張があって、「海(あま)」というぐらいだから、海人一族であるのは間違いないわけですが。
そこに「大」がついているということは、もしかして、天孫一族以前の大族が巻き返しをはかった、その由来かな、などという大胆な発想をしてみたわけです。

このへんで面白いのは、国産み神話です。
あれはさまざまなバリエーションがあるんですが、とにかく、淡路洲があって(その前に、オノゴロ島があったり)、大日本(おほやまと)豊秋津洲があって、それから伊予二名洲、筑紫洲、隠岐と佐渡、越洲、大洲、吉備小洲という展開になります。
で、「大日本豊秋津洲」は本州だってことになっていますが、それだと、越と吉備がはいっているのがおかしい。
そして大洲はなんなのか、これは謎のままなのです。

で、イザナキ・イザナミ神話で展開するので、淡路洲メイン(ここがイザナキが最終的に落ち着く聖地なので)の国産みなのは、仕方がないとして。
淡洲が、淡路洲と別に生れるケースがあるので、伊予二名は四国そのものではなく、伊予だけを指すのではないか、と思いました。
そうすると、筑紫は九州そのものではなく、北九州の筑前筑後であるところの筑紫になるかもしれません。
そこで問題の「大日本豊秋津洲」なのです。
この「大日本」はどうもあとからつけたっぽい気がします。
で、「豊秋津洲」というのを、「伊予二名洲」「吉備小洲」などと同じだと考えると、「豊」というのは豊前豊後の「豊(とよ)国)となります。
これは、要するに、豊国の秋津(安岐という地名が国東半島にあるんですが、そのあたりでしょうか)ということなんじゃないかなぁ。

安岐港


そして、吉備も越もあるのに、出雲や紀伊がないのはおかしいわけです。
大日本が後付けで豊秋津が九州のことだとすると、本州のほとんどがはいってこない(笑)。
でも、所属不明な大洲があるわけですよ。
これが、いわゆる「大国(おおくに)」の領域全体を意味するのだとすると、つまり、出雲畿内紀伊をもって「大国としての大洲」だと考えるならば、おおよそのカバーがきくわけです。

なぜこんなことを考えるのかといいますと。
そもそも、文字で歴史を記した人々は、朝鮮半島からきた人々だろう、というのが私の考えなのです。
天孫一族は、そのなかでも、かなりの後発組であった、と考えています。
スサノオ(新羅系)一族は、それより早くやってきているわけですね。
「さばへなす悪しき神あり」と言われますが、そもそも神と称せられる部族(と考えてます)は、朝鮮半島からきているだろう、と思うわけです。
国津神もそうです。これは列島在来(言い換えれば縄文以来の民)ではあるまい。
つまりは、弥生時代の到来とともに、稲作文化を持った人々が、次から次へと、朝鮮半島を経由してやってきたわけで、彼等はその稲作だけでなく、馬であるとか武具であるとか、つまりは戦争というものも支配というものも、ぜんぶもってきたんじゃないか、と考えているのです。

そうやってやってきた支配者たちは、いずれも「神」と呼ばれていて、要所要所を取っていたわけです。
そう考えたほうが、ふに落ちることが多いわけでして。
で、そのように考える場合、日本列島の表玄関は、北九州・出雲・越になるわけです。
つまり、北九州すなわち筑紫ですね。
そこに隠岐と佐渡が点在している、という発想です。
そして、筑紫から瀬戸内海にはいっていくには、豊を経由します。あるいは豊が出発点かもしれないとすら思うぐらいです。
そして伊予の二名を見て、吉備の子洲を見て、淡路島を通って、ようやく、畿内上陸です。

これが国産みの流れだとすると、出雲が抜けているのは、どうにもおかしいんですね。
この出雲が、畿内と紀伊をセットにして「大洲」だとすると、けっこう納得できるかなぁ、と思うわけです。

同時にこれが、ほぼ、記紀成立ごろの、大和朝廷と呼ばれる組織の支配のおよぶ範囲かなぁ、とも思っています。(でも、九州への支配って、実はかなり遅くまで、及ばなかったんじゃないかと思っているんですが)

そうしてみると、天孫一族は、大一族の支配する大国へやってきて、「おおきみ」にならなくっちゃいけなかったわけです。
じゃ、この「おおきみ」になる、とはどういう意味なのか。
これはまた、別の問題提起にしてみましょう。


基本的な取り組み方 [基本姿勢]

まず、古事記と日本書紀に書かれていることは、作為であれ、なんであれ、「何らか起こった事」を提示しているものと考えます。
つまり、ゼロからの作り事を書いているわけではないだろう、という姿勢ですね。
たとえば、初期天皇神武と崇神の間の、綏靖から開化までの八人は、「欠史八代」と呼ばれているけれど、まったくの作りごとではなく、なんらか存在した人の伝承が残っているのだろう、という感じですね。
その一方で、天皇家が「万世一系」だとは考えておりません。
これに関しては、三輪王朝・難波王朝並立説とか、イリ王朝・ワケ王朝・タラシ王朝などといった表記などで、古代天皇のグループわけがされているので、随時それらを参照にしながら。

そしてまず、天皇家はもとより、およそ「神」と呼ばれる人々や名のある豪族たちは、大体において朝鮮半島からやってきた、と考えます。
国津神と呼ばれるものでも、神と名がつくものは、外来である、というのが基本姿勢になりますので、ここの部分はいささか先鋭的だろうと思います。
これについては「神」という言葉の考察とともに、いろいろと取り組んでみたいと思います。

もうひとつは、男系で考えられている天皇家の流れを、女系から捉え直してみること。
縄文時代に女性の形をした土偶が多数出現していることと、平安時代における家族制度から、古代の日本においては、母系を底辺に据えた双系社会が成り立っていただろうことが推定できます。
したがって、男系のみでは読みきれない部分があるだろうということですね。
これはヒミコ→トヨという中国史書にでてくる巫女王の存在と、箸墓伝説、神功皇后や飯豊女王の存在ばかりでなく、「宮」があったという仁徳皇后磐之媛あたりにも焦点をあててみたいと思います。

そして「オオキミ」「スメラミコト」「天皇」とは、どんな存在であり、どういう条件で成立するものなのか、どの時代にどの程度の勢力範囲を持ち得たのか、というあたりにも言及してみたいと思います。

そのうえで、天智と天武の問題。彼等は兄弟ではなかったのではないか。だとすると、彼等はどんな出自であって、皇極(斉明)とはどういう関係にあるのか。彼等を天皇ならしめた条件は何であったか。これもぜひ迫ってみたい謎です。

基本姿勢といいつつ、問題提起とかぶるなぁ。


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