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聖徳太子の謎 [日本紀解体]

聖徳太子については、いろいろ言われていることもあると思いますが、なんかうちの考えはずいぶん違う感じもするんで、そこんとこ、あまり深く悩まずに、思ったことをつらつら述べていこうかと思います。

まず。
日本書紀の推古天皇の条から、聖徳太子に言及している部分を抜き書きしてみましょう。

推古元年「夏卯月に、厩戸豊聡耳皇子をたてて、皇太子とする。よりて、録(まつりごと)摂政(ふさねつかさど)らしむ。万機(よろづのまつりごと)を以て悉(ことごとく)に委ぬ。(以下、用明の第二子として生誕時の逸話を)」

推古二年「春二月に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興し隆えしむ。(以下、寺を作ったエピソード)」
推古二年「五月に、高麗(こま)の僧(ほふし)慧慈(えじ)帰化(まうおもぶ)く。則ち、皇太子、師(のりのし)としたまふ」

推古九年「春二月に、皇太子、初めて宮室(みや)を斑鳩に興てたまふ」

推古十一年「春二月に、来目皇子、筑紫に薨せましぬ。よりて駅使(はいま)して、奏し上ぐ。ここに天皇、聞きて大きに驚きて、皇太子・蘇我大臣を召して、謂(みことのり)してのたまはく、「新羅を征つ大将軍(おおきいくさのきみ)来目皇子薨せぬ。其の大きなる事に臨みて、遂ぐることえずなりぬ。甚だ悲しきかな」とのたまふ。(その後、殯の記事)」
推古十一年「十一月に、皇太子、諸の大夫(まへつきみたち)に謂(かた)りて曰く、「我、尊き仏像有(たも)てり。誰か是の像を得て恭拝(いやびまつ)らむ」とのたまふ。(秦河勝が蜂岡寺を作るエピソード)」蜂岡寺→のちの広隆寺
推古十一年「是の月に、皇太子、天皇に請(まう)したまひて、大楯及び靫(ゆき)を作り、又旗幟(はた)に絵(えが)く」

推古十二年「夏四月に、皇太子、親(みづか)ら肇めて憲法(いくつしきのり)十七条(とをあまりななをち)作りたまふ。(以下、憲法十七条の条文すべて)」

推古十三年「夏四月に、天皇、皇太子・大臣及び諸王・諸臣に詔して、共に同じく誓願(こひちか)ふことを発(た)てて、始めて銅(あかがね)・繡(ぬひもの)の丈六の仏像、各一軀を造る。(鞍作鳥に仏像を造らせた話)」
推古十三年「閏七月に、皇太子、諸王・諸臣に命(みことおほ)せて、褶(ひらおび)着しむ」
推古十三年「冬十月に、皇太子、斑鳩宮に居(ま)す」

推古十四年「秋七月に、天皇、皇太子を請(ま)せて、勝鬘経(しょうまんぎょう)を講(と)かしめたまふ。三日に説(と)きをへつ。 是歳、皇太子、亦法華経を岡本宮に講く。天皇、大きに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子に施(おく)りたまふ。因(よ)りて斑鳩寺に納(い)れたまふ」

推古十五年「春二月……甲午に、皇太子と大臣と、百寮(つかさつかさ)を率(い)て、神祇(あまつかみくにつかみ)を祭(いは)ひ拝(いや)ぶ」

推古二十一年「十二月に、皇太子、片岡に遊行(い)でます。(以下、飢えたるひとに出会って云々という、説話が詩つきではいります)」

推古二十八年「是歳、皇太子・嶋大臣、共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部あわせて公民等(おほみたからども)の本記を録(しる)す」

推古二十九年「春二月に、半夜(よなか)に厩戸豊聡耳皇子命、斑鳩宮に薨(かむさ)りましぬ。(以下、嘆き悲しむ民の話)。
是の月に、上宮(かみつみやの)太子(柩の皇子)を磯長(しなが)陵に葬る。(以下、高麗に帰っていた慧慈が厩戸逝去を聞いて悲しむ話)」

以上です。
正直いって、あまり多くない。
万機を委ねるといっておきながら、皇太子がやったことになっているのは、
1.斑鳩に宮をたてる。
2.秦河勝に広隆寺を造らせる
3.大楯と靫を造り、旗に絵を描かせる。
4.憲法十七条を造る。
5.諸王・諸臣に、褶(ひらおび)を着せる。
6.斑鳩宮に移る。
7.天皇の要請で、勝鬘経、法華経を講義する。
8.神祇を拝礼する。
9.片岡で飢えた聖に出会う。
10.天皇記などを記す。
と大体、こんなぐらいです。
実は小野妹子の実績も、そのほかの新羅や任那とのやりとりにも、皇太子の名前は全然でてきません。
小野妹子がらみの話は、これまた大きくなるのでとりあえず、おいとくとしても、意外にも厩戸皇子が関わった事柄というのは実に少ないのです。
少なすぎるぐらいです。

そのうち、1.3.5.6.8.10.というのは、ひとつながりではないか、と想像しています。
そして、大楯・靫を造り、神祇を拝礼しているところから、斑鳩宮で即位しているのではないか、と推測しております。
そもそも推古天皇に竹田皇子という跡取りの息子がいながら、これについて言及することなく、ほかの皇子にも言及せず、なんら混乱もなく厩戸皇子がすんなりと皇太子(ひつぎのみこ)として紹介される、という展開が、日本書紀としてはかなり異例です。
これは、厩戸皇子が天皇となっていて、しかし、これに敵対するライバルもいて、将来的にはそのライバルのラインのほうが優性になってしまったために、厩戸皇子は皇太子のままでとどめられたんじゃないかなぁ、という気がするのです。
で、その事実を隠すために、ライバルである彦人大兄(ひこひとのおおえ)には言及していないわけです。
でも、山背でなく舒明がすんなり(じゃないかもしれないけど)次の天皇になったのは、厩戸の対抗馬としての彦人大兄が揺るぎない力を持っていたからじゃないのかなぁ、なんて思っています。
そして実は外交関係は、この彦人大兄が握っていたんじゃないのかな?

推古13年に、厩戸は斑鳩宮に居ます。これはたぶん、このときに、斑鳩に完全に「隠遁」したんだと思います。でも、斑鳩宮は9年から造っているんですね。本来は斑鳩で天皇になろうとした、あるいはなったんだと思います。が、結局、嶋大臣(蘇我馬子)はとにかくとして、ほかの諸王・諸臣は斑鳩に参集しなかったんじゃないかな。
なんせこの13年からあと、皇太子の名前がでてくるのは、ほとんど仏教関係です。

推古の宮は飛鳥の岡本にあった、とされています。ここから斑鳩まではかなりの距離です。
毎日通うには、ちょっと遠い距離だと思うが、いかがでしょうか。
だから推古が請うと、のこのこと斑鳩からやってきて、お経を講義してまた帰る。
なんとなく、そんな厩戸が目に浮かびます。
それは政争に破れ、政治家としての道を断たれた印象なのです。

最後の最後に、天皇記などを造ったことになっていますね。
これは結局、蘇我蝦夷入鹿親子が滅ぼされた時に、船史(ふねのふひと)が救い出して、中大兄に献上したことになってますが、それはまた、別の話として。

とりいそぎ、この辺まで。
何が謎やらという感じですが。


「春秋の筆法」で書記を読む~3 蝦夷篇 [春秋の筆法]

「春秋の筆法」について、気になりだしたので、日本書紀における漢文装飾部分を網羅しています。
圧倒的に多いのは、漢書と文選と礼記なのだけれど、ときどき、そうでないものもある。
そして、どうやらもとにしている文書やその内容が、書き手の記事に対するさりげない批判をあらわしている……ぽい。
いや、それこそが、「春秋の筆法」というわけですが。

で、それをやっているときに、面白いものを見つけてしまったので、とりあえずメモ。

景行天皇五十六年条
「時に蝦夷の首帥(ひとごのかみ)足振辺(あしふりべ)・大羽振辺(おおはふりべ)・遠津闇男辺(とおつくらをべ)等、叩頭(の)みて来(まうけ)り。頓首(をが)みて罪を受(うべな)いて、尽(ふつく)に其の地(ところ)を献(たてまつ)る。因(よ)りて、降(したが)ふ者を免(ゆる)して、服(まつろ)はざるを誅(つみな)ふ」云々。

さて問題は、「頓首受罪、尽献其地……」の部分であります。
これ、出典は史記の周本紀。ここでは
「西周君犇秦。頓首受罪、尽献其邑……」とあるそうです。
で、問題は。
蝦夷に相当するのが、西周君。
秦が大和朝廷(といっていいのかわからない……が、景行天皇側)なのです。
(犇という言葉は、奔という言葉と同じ意味だそうでして「はしる」と読みます)

つまりですね。西周の君(前王朝の最後の王様ってことですね)が、秦(新興勢力で、大変に意気盛んで、つまりは荒々しかった……そうです)にくだって、頓首しちゃったわけです。
えぇ下克上ですよ。

それをそのまま考えると、蝦夷の王朝というものがあって。
そちらのほうが優雅にして文化も高かった(周という国に擬せられるなら、そういうことになります)。
そこへ新興勢力大和(力はあるけれど野蛮)がやってきて、一気に王朝を簒奪してしまった。
その結果、ついに蝦夷の王様が捕らわれて頭をさげて土地を差し出して、なんとか命は許してもらいました、ということになる……わけです。

蝦夷が。
大和朝廷よりも文化の高い王朝だった。
可能性は……あるかもなぁ。

わざわざこうやって史記の周本紀(ふだんはあまり使っていない)を引き出してきているところを見ると、それっぽい感じがしますよ?
で、実際にこれをやったのは、景行天皇の命を受けた御諸別王(みもろわけのみこ)という人でして、崇神天皇の息子彦狭嶋王(ひこさしまのみこ)のそのまた子どもになります。
そもそもここの部分の内容は、ほかとはつながらないので、あとから挿入されたっぽいんですけどね。
で、この、ヒコサシマ→ミモロワケってのが、東国の平定を命じられて、ついに果たしましたってことなんだけど。
その結果として、彼らの後裔が、上毛野(かみつけぬ)下毛野(しもつけぬ)の君の一族となるんだそうです。
そうなると、彼らが平定した蝦夷というのは、上毛の中心とする、毛野(けぬ)の地を支配していた王族だったってこと……なりませんかね。
正確にいうと、秦に比定されているのは、この上毛野・下毛野君の祖先ってことになります。

これがいつごろのことか、というのを調べていくのも面白そうですよね。
そして。
関東の、上毛、たぶん群馬の高崎あたりを中心に存在したと思われる王朝(サキタマ古墳出土の刀との関連を思い出してみてください)が、実はかなり古くて由緒あって文化もあって、きちっとしていたんじゃないか、と思われてなりません。
全部ばっさり跡形もなく消されてしまって、「蝦夷」と一括りに蛮族扱いされちゃってるけど、本当はそうじゃなかったんじゃないか。
むしろ平定した、とか言われている崇神の子や孫のほうが、蛮族王朝だったんじゃないか、と思わせるものがありますね。

そういうあたりを、春秋の筆法で書いている、と思うと、ますます、書記の編纂者たちの姿を詳しく追究したくなっちゃいます。


池辺皇子の謎 [日本紀解体]

夫と二人、日々、日本書紀を読んでいる。
ある時、夫が面白いことに気づいた。
「なんか、うじのかいだこのひめみこ(敏達天皇と推古天皇の長女、ということになっている。聖徳太子の奥さん)の別名って、同じ名前の敏達の別の娘がいるんだけど」

まずはここを、日本書紀から拾ってみよう。
「四年の春正月の丙辰の朔甲子に、息長真手王の女広姫を立てて皇后とす。是一(ひとり)の男(ひこみこ)・二(ふたり)の女(ひめみこ)を生れませり。其の一を押坂彦人大兄皇子と曰(まう)す。其の二を逆登(さかのぼり)皇女と曰す。其の三を菟道(うぢ)磯津貝(しつかひ)皇女と曰す」
これは敏達天皇四年条の冒頭。このあとに何人か奥さんをもらった情報がはいる。
そして、この年の冬に皇后の広姫が亡くなります。
「五年の春三月の己卯の朔戊子に、有司(つかさ)、皇后を立てむことを請す。詔して豊(とよ)御食(みけ)炊屋(かしきや)姫尊を立てて皇后とす。是、二の男・五の女を生れます。其の一を、菟道貝蛸(かいだこ)皇女と曰す。更(また)の名は、菟道磯津貝皇女。(以下略)」
そして、次の項目。
「七年の春三月の戊辰の朔壬申に、菟道皇女を以て、伊勢の祠(まつり)に侍らしむ。即ち池辺(いけへ)皇子に姧(をか)されぬ。事顕れて解けぬ」

さて、ここでいう、菟道皇女(うじのひめみこ)とは、広姫の娘のほうの菟道磯津貝皇女のことだ、と注釈には書いてあります。
すなわち、敏達記に、この人は「宇遲(うじ)王」と書かれているからですね。
炊屋姫(のちの推古天皇)のほうの娘については、敏達記では「靜貝王、またの名は貝蛸王」と書かれているのです。
異母姉妹で同名はありえないはずなのに、いろいろと混乱しているようです。

で、池辺皇子ですが、この人は他に見えなくて、どこのだれだか分からないんだそうです。
これが不思議だ。
伊勢の祠というのは、たぶん、伊勢斎宮の前身だろうと考えられています。いわば、菟道皇女は斎宮なわけです。これを犯してしまった。斎宮は処女でなければならないから、もう斎宮ではいられない、だから解任された、というわけですよね。
ちなみに、七年に菟道皇女は伊勢の祠に侍らしむわけですが、何年に解任されたかはこの文面からは分かりません。
次の伊勢斎宮っぽい記述は、用明天皇条で、即位と同時に、「酢香手姫皇女を伊勢神宮に拜して、日神の祠に奉らしむ」とあり、敏達年間にはほかの皇女を伊勢に、という記述はありません。
となると、菟道皇女は、七年に伊勢の祠についてから、十四年の敏達薨去までの間のいつかに解任されたことになります。
で、池辺ってのは、なんとなく地名っぽい気がするね、という話はあったわけです。
皇子の名前に地名がつけられることはよくありますからね。
で、池辺という地名って、どこかで聞き覚えがあったね……といって調べてみたら、なんのことはない、用明天皇の宮が「池辺双槻(いけのへのなみつき)宮」でした。
ここがもともとの用明の根拠地であるとすると、池辺の皇子というのは、用明か、さもなきゃその息子の厩戸ってーことになります。

はい、そうです。菟道の貝蛸(一名、磯津貝)を嫁さんにもらってる、あの厩戸さんです。聖徳太子さんです。

まっさかねー。

と思いつつも、なんとな~く、不思議に思っているのは。
聖徳太子の正妻であるはずのこの菟道貝蛸皇女に、子どもがいないんですよ。
世継ぎである山背(やましろ)大兄の母親は、蘇我馬子の娘の刀自子(とじこ)郎女(いらつめ)ということになっていますからね。
しかも山背が「大兄」と呼ばれているからには、皇太子(ひつぎのみこ)に準じる形での後継者扱いされていたと思われるふしがあります。
もし菟道貝蛸に息子がいたら、血筋の上からも、確実にそちらのほうが上位なので、山背が大兄であるということは、少なくとも貝蛸皇女には皇子がいなかったということになります。

しかし、これもまた、不思議な話しではあるわけですよね。
推古朝に聖徳太子は皇太子(ひつぎのみこ)となり、摂政として女帝を助けていたことになっています(なっている、とか書いちゃうけど……いや、詳しいことはたぶん、別項になると思いますが)。
でも、どうしてこの人が皇太子になったのか、詳しい選定とかはまったくなく、いきなり、なんですよね。
こんだけあちこちで、あれやこれや世継ぎ争いしている時に、たぶん竹田皇子(推古の息子)は亡くなっていたとは思うのですが、もうひとり尾張皇子という息子がいることになっています。しかも聖徳太子はこの尾張王の娘を娶っているという説もあるんですよね。そうなると少なくとも娘ができるほどには成長しているはず……しかし尾張皇子、その後どこにもでてきません。

そしてもうひとつ。
貝蛸って、やどかりの意味らしいんです。
「此の物、貝の内にある小さき蛸にて、両の手両の脚を其の殻の外へだして、海をおよぎ行く物なりといえり」というのは、まさに、やどかりですよね。
宿借りという名前の皇女……その皇女の別名と同じ名前の別の皇女、そして池辺皇子。

もしも池辺皇子が聖徳太子のことだったら……と思うと、妄想は果てし無く広がっていきます。
それはまた別項にて。


「春秋の筆法」で書記を読む~2 天皇葬法篇 [春秋の筆法]

その1は、天皇の薨去の文例を並べました。
で、その2は、こんどは葬法について、並べてみたいと思います。

1.神武 「明年(くるつとし)の秋九月の乙卯の朔丙寅に、畝傍山東北陵に葬りまつる」(神武七十有六年条)

2.綏靖「元年(はじめのとし)の冬十月の丙戌の朔丙申に、倭の桃花鳥(つき)田丘上陵に葬りまつる」(安寧条)

3.安寧「秋八月の丙午の朔に、畝傍山南御陰(みほと)井上陵に葬りまつる」(懿徳元年条)

4.懿徳「明年(くるつとし)の冬十月の戊午の朔庚午に、畝傍山南繊沙谿(まなごのたに)上陵に葬りまつる」(考昭条)

5.考昭「三十八年の秋八月の丙子の朔己丑に、掖上(わきのかみ)博多山上陵に葬りまつる」(考安条)

6.考安「秋九月の甲午の朔丙午に、玉手丘上陵に葬りまつる」(考霊元年条)

7.考霊「六年の秋九月の戊戌の朔癸卯に、片丘馬坂陵に葬りまつる」(考元条)

8.考元「五年の春二月の丁未の朔壬子に、剣池嶋上陵に葬りまつる」(開化条)

9.開化「冬十月の癸丑の朔乙卯に、春日率川(いざかわ)坂本陵に葬りまつる。一(ある)にいわく、坂上陵。」(開化六十年条)

10.崇神「明年(あくるとし)の秋八月の甲辰の朔甲寅に、山辺道上陵に葬りまつる」(崇神六十八年条)
「冬十月の癸卯の朔癸丑に、山辺道上陵に葬りまつる」(垂仁元年条)

11.垂仁「冬十二月の癸卯の朔壬子に、菅原伏見陵に葬りまつる」(垂仁九十九年条)

12.景行「二年の冬十一月の癸酉の朔壬午に、倭国山辺幹上陵に葬りまつる」(成務条)

13.成務「明年の秋九月の壬辰の朔丁酉に、倭国の狭城(さき)盾並(たたなみ)陵に葬りまつる」(仲哀即位前記)

14.仲哀「是年、新羅の役によりて、天皇を葬りまつること得ず」(仲哀九年条)
「即ち天皇の喪(みもがり)を収めて、海路より京に向(いでま)す」(神功皇后即位元年条)
「二年の冬十一月の丁亥の朔甲午に、河内国の長野陵に葬りまつる」(神功皇后条)

15.神功皇后「冬十月の戊午の朔壬申に、狭城盾並陵に葬りまつる」(神功皇后六十九年条)

16.応神……記載なし

17.仁徳「冬十月の癸未の朔己丑に、百舌鳥野(もずの)陵に葬りまつる」(仁徳八十七年条)

18.履中「冬十月の己酉の朔壬子に、百舌鳥耳原陵に葬りまつる」(履中六年条)

19.反正「冬十有一月の甲戌の朔甲申に、耳原陵に葬りまつる」(允恭五年条)

20.允恭「冬十月の庚午の朔己卯に、河内の長野原陵に葬りまつる」(允恭四十二年条)

21.安康「三年の後、乃(いまし)菅原伏見陵に葬りまつる」(安康三年条)

22.雄略「冬十月の癸巳の朔辛丑に、丹比(たぢひ)高鷲原陵に葬りまつる」(清寧元年条)

23.清寧「冬十一月の庚午の朔戊寅に、河内坂門原(さかとのはら)陵に葬りまつる」(清寧五年条)

24.顕宗「冬十月の丁未の朔己酉に、傍丘(かたをか)磐杯丘(いわつきのおか)陵に葬りまつる」(仁賢元年条)

25.仁賢「冬十月の己酉の朔癸丑に、埴生坂本陵に葬りまつる」(仁賢十一年条)

26.武烈「二年の冬十月の辛亥の朔癸丑に、傍丘磐杯丘陵に葬りまつる」(継体条)

27.継体「冬十二月の丙申の朔庚子に、藍野陵に葬りまつる」(継体二十五年条)

28.安閑「是の月に、河内の旧市(ふるいち)高屋丘陵に葬りまつる」(安閑二年十二月条)

29.宣化「冬十一月の庚戌の朔丙寅に、大倭国の身狭(むさ)桃花鳥(つき)坂上陵に葬りまつる」(宣化四年条)

30.欽明「秋八月の丙子の朔に、新羅、弔使(とぶらひ)未叱子失消(みししししょう)等(ら)を遣して、殯に奉哀(みねたてまつ)る。
九月に、檜隅(ひのくま)坂合(さかい)陵に葬りまつる」(欽明三十二年条)

31.敏達「是のときに、殯の宮を広瀬に起つ」(敏達十四年秋八月条)
「四年の夏四月の壬子の朔甲子に、磯長(しなが)陵に葬りまつる。是其の妣(いろは)皇后の葬られたまひし陵(みはか)なり」(崇峻条)

32.用明「秋七月の甲戌の朔甲午に、磐余池上陵に葬りまつる」(用明二年条)

33.崇峻「是の日に、倉梯(くらはし)岡陵に葬りまつる」(崇峻五年十一月条)

34.推古「秋九月にの己巳の朔戊子に、始めて天皇の喪礼(みものこと)を起す。是の時に、群臣(まへつきみたち)、各(おのおの)殯宮に誄(しのびことまう)す。是より先に、天皇、群臣に遺詔(のちのみことのり)して曰く、「比年(としごろ)、五穀登らず。百姓大きに飢う。其れ朕が為に陵を興てて厚く葬ること勿(まな)。便に竹田皇子の陵に葬るべし」とのたまふ。壬辰に、竹田皇子の陵に葬りまつる」(推古三十六年条)

35.舒明「甲午に、初めて喪(みま)を発す。壬寅に、滑谷岡に葬りまつる」(皇極元年十二月条)

36.孝徳「十二月の壬寅の朔己酉に、大阪磯長(しなが)陵に葬りまつる」(孝徳白雉五年条)

37.斉明「六年の春二月の壬辰の朔戊午。天豊財重日足姫天皇と間人皇女とを小市岡上陵に合せ葬せり。是の日に、皇孫大田皇女を、陵の前の墓に葬す」(天智条)

一応、斉明天皇までといたします。
でも実際は、欽明以降は、殯(もがり)について、もっと詳しく引用したほうがいいかもしれないなぁ。

とりあえず、その天皇の条の最後か、次の天皇の条の冒頭のあたりに大体あるんですが、ときどきそうでないものがあって……要注意です。

これを見て分かることは、崇神と垂仁とで、書き手が違い、使っている暦も違うということ。
応神の記載がない(でも応神陵というのは認定されているんだよね?)ということは、どれが応神陵と書記選定(あえて、選定といおう)時に決定できなかっただろうということ(^_^;)。
殯がはじまるのは欽明天皇からで、つまり欽明朝以降、葬儀方法が変わったということですな。
あと、合葬というのも注目すべきポイントだとおもうのですが……さすがに羅列しただけで疲れてしまったので、とりあえず、ここで筆を置きます。


さきたま古墳群稲荷山古墳出土鉄剣銘文についての疑問 [問題提起]

題名がいやに長くなっちゃいましたが、基本的な疑問というのは、なぜ「ワカタケル大王」が雄略だって、そうも断定しちゃうかってことなんです。

鉄剣に刻まれた文字は115文字、欠損なしで、ほぼ全文読みくだせるという、大変に画期的な発見であったことは理解できます。
これで隅田八幡宮の鏡の銘文もわかるよ~、とか、いいたいのもわからなくはない。
でもですよ。
「獲加多支齒大王寺、在斯鬼宮時」
前半がワカタケル大王でもいいです。「寺」に関しては、これを動詞と読むのか、それともいわゆる寺院としての「てら」として名詞で読むのかわかりませんが、とりあえず棚上げしましょう。
でも、そのあとは、「しきのみやにあるとき」ですよね。まぁ、「寺」というのを、「役所」という意味にとって、「ワカタケル王の役所が『しき』の宮にあるとき」と読んでもいいと思います。
問題はですね、雄略天皇の宮が、「しき(磯城)」にあったことがないってことなんです。
(まぁそのせいで、この「しきのみや」を重視する人は、欽明天皇なんじゃないかーとかいってますが。でもそれは少数なんだなー)

いや、そもそもこういう銘文をもった鉄剣がでてきたから、この時代(銘文の「辛亥」は471年に比定されているので、五世紀後半)に関東は畿内の大王権に服属していた、という結論も、待ったをかけたいものです。
なんかねぇ、そもそも大王権ってなんなのよって部分が明確にされないままに、とにかく畿内に王朝があって、そこがどんどこほかの地方を支配していった、というのが当たり前な感覚になっているのは、どうにかして欲しいんだな。
天皇は天皇家の血をひいてるから、だから天皇なんだーっていう発想そのものを、根本的に改めて欲しいですね。少なくとも学問的には。
そうなってはじめて、どうしてこの国を支配していったのか、支配といいつつ、その実態はどういうものなのか、はたまたそもそも支配なんてしていたの? といったあたりまで、突っこんで議論もできるというものです。

磯城、という土地に関しては、大変に注目しております。
欠史八代とかいって、一括りにされちゃってる、綏靖から開化までの天皇さんたちのうち、かなりの人たちが磯城と縁組しています。
そして磯城とは、三輪山の裾。大物主を祀る地域なわけですな。
ここに宮を作るってことは、大物主と手打ちができてるってことでしょうね、きっと。
まぁ、だからといって、「斯鬼宮」が、磯城の宮かどうかも、分からないとは思うんですけど。

このへんで、ちょっと大胆な仮説を出してみよーかと思います。
古墳時代後半、大規模な古墳が作られる時代、そう、5世紀後半から6世紀にかけて、群馬は高崎あたりに、巨大古墳がいくつも作られています。
この近くに、豪族の館あとが発見されています。これが上毛(かみつけぬ)の君の館かどうかは分かりませんけどね。
このへんに大王がいたっていいじゃないか、というのが私の意見です。
え? 大王は畿内にいただろうって?
そんなことないですよ。越あたりで大王を名乗っていた人がいるようですから。
まぁ、大王=おおきみ、で、おおきみは「きみ」の大きいものだって考えたら、「かみつけぬのきみ」が自ら「おおきみ」と名乗っても別に問題はないわけですよ。
ヤマト以外は「おおきみ」と名乗っちゃいけない、という命令が徹底でもしていれば別ですけど。
たぶん、きっと、かなりの確率で、全然、徹底なんかできてなかった、と思いますね。
だとしたら、あのへんに大王がいて、稲荷山古墳に葬られている人は、そこに服属していたかもしれないわけですよ。
いや、そうでなくっちゃいけない理由は別にないんだけど。

なんでこんなこと考えているかっていうと、ひとつには、5世紀後半に、畿内の大王権が本当に関東まで徹底していたか、ということ。
もうひとつは、上毛の勢力というのは、実はすごくでかかったんじゃないか、ということ。
当然のことながら記紀は畿内中心に描いていますから、地方勢力というのは、常に敵対勢力なわけでして、それがぶつかると、何かしらの記事となってきます。
でも、上毛って、実はほとんど記事がないんですよね。
ぶつかってない。
ぶつかってないからおとなしく服属しただろう、という考えもひとつはあると思うけれど。
記事がないってことは、実は記紀の時代にはそこまで勢力が及んでなかったんじゃないかな、という判断もできるわけです。

それというのもですねぇ。
縄文時代における貝塚の分布ってのは、関東地方に集中しているわけでして。
稲作がはいってくる前、もっとも豊かだったのは、関東地方だったと思うんです。
そればかりじゃなく、北は青森から南は九州南端まで、いくつも大きな遺跡がでているのに、畿内には縄文時代の遺跡が本当に少ないんですよね。
どうもあまり、豊かな場所ではなかったらしい。
それほど豊かではない場所に、弥生時代になって、ようやく入り込んだ勢力が、そこで「おれたちはこの国の中心だ」といったところで、まわりは聞くんでしょうか?
なるほど彼らは大きな古墳を早々と作る力をもっていたかもしれない。
でもそうした力は、すぐに各地に波及します。
瀬戸内海の交通をおさえて、半島の先進的な文化をいち早く入手できたかもしれない。
でも、じゃあ、そうした文化の一端をおすそ分けしてもらえるように、畿内政権に向かって頭をさげたか、というと、そんなことはないんじゃないの、といいたくなるわけです。
なぜなら上毛地域の勢力は、そもそも縄文時代の豊かな場所より、ずっとずっと奥まった地域にいるわけです。高崎と前橋付近ですからね。
ここが、古墳時代に関東でもっとも栄えた地域、言い換えると、縄文から弥生にかけての地域とは別の部分に入り込んでいるわけです。
(実は畿内と同じようなことがおきているわけですな)
九州方面は縄文から弥生へ、弥生から古墳時代へと、遺跡がつながっているケースが多いようですが、畿内は弥生になってから忽然とあらわれ、関東では縄文時代とは別勢力が別の地域にあらわれている。
つまりは、外来勢力ですよね。

そして関東におけるこれら外来勢力はどこからきたかっていうと、越から諏訪を抜けるルートなんじゃないかと思います。
糸魚川から松本への『塩の道』、ここを支配していた安曇氏は海洋民族です。
しかも糸魚川周辺は古代からヒスイの産地として有名で、そのヒスイ加工品は、日本海沿岸の各遺跡をはじめとして、かなり遠方まで運ばれています。
黒曜石の伝播ルートも確立していましたしね。
そうなると、この上毛勢力は、越へ抜けるルートを確保していて、越から半島への航海ルートも当然確保していた、と思われるわけです。
つまり、畿内を経由しなくても、半島の文化を吸収することは可能だったんじゃないか、といいたいわけですね。
だとしたら、畿内とぶつからない限りにおいては、わざわざ服属する理由もなさそうに思えるんです。

そもそも畿内の大王権力というのは、いったいどんな基盤に成り立っていたのか、というのが、ほんっとーに分からないんですよ。
アマテラスだ、天孫族だ、高天ヶ原だ、という神話世界は、なるほど彼らがよってたつ基盤ではあったかもしれないけれど、それが他者の、よその地方の人々に対してまで、効力をもっていたかというと、かなり疑問なわけですね。
壬申の乱の時の地方の動きをみても、大海人に従ったのは美濃尾張まで。越や上毛は(大海人が近江側の使者をうまくおさえたという説もあるけど)無関係。
吉備も九州も「知~らないっ」とばかりにほっかむりしていて、完全に畿内+美濃尾張だけの戦いになってます。
あの状態で、畿内勢力が全国を支配していた、とは到底いえないと思う。
それより一世紀も前の話です。
どう考えても、関東地方まで、畿内政権が及んでいたとは思えないんですね。

もちろん、さきたま古墳群にからんだ人々が、畿内から移住してきた連中で、それでわざわざ畿内まで奉仕活動にいって、鉄剣もらって帰ってきた、という推理は成り立つと思います。
ヲワケのオミの祖であるオホビコってのが、考元天皇の長男で、四道将軍の一人に任じられた大彦命だという説もありまして。
「臣(オミ)」というカバネを名乗っているからには、それは畿内勢力からくだされたものではないか、との意見もあるわけですが。
いやまぁ、「オミ」とか「スクネ」とかに関しても、いろいろと言いたいことはあるんですが、それはとりあえずおいといて。

ほんと、天皇の権力の基盤って、なんなんでしょうねぇ。
天皇家が祀っている神様ってのは、実は海由来なんだよ~、という話には、けっこう目からうろこでした。
つまり、全国から寄せられる「神饌」の具というのは、海産物が多いということです。
これはびっくり。
神様は、鮑とか鯛とか若布とかがお好きらしい。
「天照大神」というのの「天(あま)」は、実は「海(あま)」なんじゃないか、という指摘もありますしね。
そのへんはまた、いろいろと考えていきたいと思います。

とりあえず「しき宮に、雄略はいなかった」ぞ、ということで(^_^;)。


「春秋の筆法」で書記を読む~1 天皇逝去篇 [春秋の筆法]

前記事で紹介した、「春秋の筆法」で、書記を読み直してみよう、という試みです。
「春秋の筆法」とは、孔子が『春秋』を著すうえで取った、独特の文章スタイルのこと。
簡潔を旨とし、余計なことは言わないが、「あえて書かなかった」部分で、裏の事情をそれとなく読者に知らしめるというもの。
前記事では、魯公の逝去記事について紹介したので、これと同じものを選んでまずやってみましょう。

そもそも、日本書紀じゃ天皇の暗殺だって堂々と書かれているじゃないか、「春秋の筆法」なんか使われているはずはない、と思われるあなた、まずはごらんあれ。
(文中、「時に年幾許」とある場合、幾許にはそれぞれの数字がはいっております。「若干」の場合は本文ママです)

神武 天皇、橿原宮に崩(かむあが)りましぬ。時に年幾許。
綏靖 天皇不予(みやまひ)したまふ。癸酉に、崩りましぬ。時に年幾許。
安寧 天皇崩りましぬ。時に年幾許。
懿徳 天皇、崩りましぬ。
考昭 天皇崩りましぬ。
考安 天皇崩りましぬ。
考霊 天皇崩りましぬ。
考元 大日本根子彦国牽天皇崩りましぬ。
開化 天皇崩りましぬ。
崇神 天皇、践祚(あまつひつぎしろしめ)しての○年○月の○日に、崩りましぬ。
垂仁、纏向宮に崩りましぬ。
景行、高穴穂宮に崩りましぬ。時に年幾許。
成務、天皇崩りましぬ。時に年幾許。
仲哀、天皇、忽(たちまち)に痛身(なや)みたまふことありて、明日(くるつひ)に、崩りましぬ。時に、年幾許。即ち知りぬ、神の言を用いたまはずして、早く崩りましぬることを。[分注]一(ある)にいわく、天皇、親(みづか)ら熊襲を伐ちたまひて、賊の矢に中(あた)りて崩りましぬといふ。
神功皇后、皇太后、稚桜宮に崩りましぬ。[分注]時に年幾許。
応神、天皇、明宮に崩りましぬ。時に年幾許。[分注]一にいわく、大隅宮に崩りましぬという。
仁徳、天皇、崩りましぬ。
履中、天皇、玉体(おほみ)不悆(やまひ)したまひて、水土弗調(やくさ)みたまふ。稚桜宮に崩りましぬ。[分注]時に年幾許。
反正、天皇、正寝(おほとの)に崩りましぬ。
允恭、天皇崩りましぬ。時に年若干(そこばく)。
安康、天皇、眉輪王の為に殺(し)せまつられたまひぬ。
雄略、天皇、疾(おほみやまひ)弥(いよいよ)甚(おも)し。百寮(つかさつかさ)と辞訣(わかれ)たまひて、並びに手を握りて歔欷(なげ)きたまふ。大殿(おおとの)に崩りましぬ。
清寧、天皇、宮(とつみや)に崩りましぬ。時に年若干。
顕宗、天皇、八釣宮に崩りましぬ。
仁賢、天皇、正寝に崩りましぬ。
武烈、天皇、列城(なみき)宮に崩りましぬ。
継体、天皇、病(おほみやまひ)甚(おも)し。天皇、磐余玉穂宮に崩りましぬ。時に年幾許。
安閑、天皇、勾金橋宮に崩りましぬ。時に年幾許。
宣化、天皇、檜隈(ひのくま)廬入野(いほり)宮に崩りましぬ。時に年幾許。
欽明、天皇、遂に内寝(おほとの)に崩りましぬ。時に年若干。河内の古市に殯す。新羅、某を遣して、殯に奉哀(みねたてまつ)る。
敏達、天皇、病弥留(おも)りて、大殿に崩りましぬ。この時に殯宮を広瀬に起つ。(馬子と守屋の誄)
用明、天皇、大殿に崩りましぬ。
崇峻、馬子宿禰~すなわち、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)をして、天皇を弑(し)せまつらしむ。この日に、天皇を倉梯岡陵に葬りましぬ。
推古、天皇、臥病(みやまひ)したまふ。~天皇、痛みたまふこと甚だしくて緯むべからず。~天皇崩りましぬ。[分注]時に年幾許。即ち南庭(おほば)に殯す。秋九月にはじめて天皇の葬礼を起こす。この時に、群臣各々殯宮に誄す。
舒明、天皇、百済宮に崩りましぬ。宮の北に殯す。これを百済の大殯という。このときに東宮開別(ひらかすわけ)皇子、年十六にして誄したまふ。
孝徳、天皇、正寝に崩りましぬ。よりて殯を南庭に起つ。
斉明、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。~~天皇の葬(みも)をもって、飛鳥の川原に殯す。これより発哀(みねたてまつ)ること、九日に至る。
天智、近江宮に崩りましぬ。新宮に殯す。
天武、天皇の病、遂に差(い)えずして、正宮(おおみや)に崩りましぬ。初めて発哭(みねたてまつ)る。即ち殯宮を南庭に起つ。(以下、「みね」と「しのびごと」の事例が延々と)

持統天皇は譲位しているので、日本書紀における天皇の死亡例はここまでです。

ながながとやってきましたが、ただ「崩りましぬ」という例と、「どこそこに崩りましぬ」という例があるということがお分かりいただけると思います。
同時に、年齢を書いている場合とそうでない場合があることもお分かりいただけると思います。
そして後半、殯や誄といった葬礼に関する情報が増えていることがわかります。
これは欽明からなので、欽明天皇以降、葬礼が変わったということが判明します。
私は欽明は外来の天皇だと思ってますんで、ここで半島の葬礼を持ち込んだと考えます。「みね」奉るのが新羅からの遣人だけってのも、それっぽいですね。

基本的に、正寝とか~~宮というところでお亡くなりになるのが、普通に病死しました、という意味です。そして、古い天皇であっても、宮の在所ぐらいはわかりますから、その気になれば付け足すことができるのにやってない、という事例は、やはり穏やかな死ではなかったのかなぁ、と邪推できます。事前に病気についての説明がある場合は、病死でよいと思うのですが、それでも、推古の場合は死んだ場所が書かれていないのは、ちょっと妙な感じです。
そして、舒明「のみ」南ではなく北に殯宮を作っているのが、すごく変ですね。百済宮でなくなったから、これを「百済大殯」という、なんて書いてありますが、それもすさまじくおかしいです。しかも百済宮って、どこなんでしょう。なんでまた百済宮?

いずれにしてもこの書き出し、やってみたらすごく面白かったんです。
とりあえず、ただの死亡記事が、安寧、懿徳、考昭、考安、考霊、開化、成務、仁徳、允恭までです。仁徳がただの崩御ってのが、ちょっとオドロキでした。
病気の記事は後半増えてきますね。それだけ情報が豊富なのでしょう。
仲哀なんかは、死亡記事が錯綜してます。
応仁も死亡した宮が複数言い伝えがあって、はっきりしません。
こんなところからも、いろいろ邪推できそうで、楽しいです。

こうなってくると、即位記事とか、御陵の記事とか、あるいは奥さんと子供の記事とか、それぞれ別々に並べてみると楽しそうですね。
まさしく解体作業というにふさわしいかも。


『邪馬台国の全解決』by孫栄健 [基本姿勢]

書籍紹介といきたいところだが、あえて「基本姿勢」で語る。
この本を読まずして、邪馬台国を語るなかれ。

六興出版のロッコウブックスがなぜか大量にわが家にある。
亡くなった父が晩年に買い求めたもので、正直にいって「ちょ~」が多い。
邪馬台国に限らず、日本古代史というやつは、先に語りたい何かがあって、それに敷衍して史書を扱うきらいが多いと思う。
(かく申す自分がそれをやっていないという自信はない)
もちろん、誰もが、語りたいなにかがあるからこそ、語るのであって、なにもないのに語るはずもないのだが。
その語りたい何か、が、その人個人で納得できても、ほかの人を納得させられることができなければ、それはやはり論として通らないのではないかと思う。
(繰り返すが、自分もまた、通らない論を展開しているかもしれないという危惧は常につきまとう)

これまでに、邪馬台国に関して論じられた本を、数十冊は読んだと思う。
だがそのどれ一冊として、私を納得させてくれるものはなかった。
高校時代にすでに『魏志倭人伝』を漢文で読まされている。(←なんで読んだんだっけ、とつくづく思い返してみたら、日本史の特殊授業だった。そんなものやってたんだ……)
だから、一応は、それぞれの著者が文献をあれこれひねっている、その沿革が推測できる。
そのどれもが、納得がいかなかった。
そう、この著者の答えと同じ答えを導き出している著書もあったはずだが、全然まったく納得いかなかった。

それなのに、この本は、最初から最後まで、まったくといっていいほど矛盾を感じない。
題名からくる「ちょ~」さ加減とは隔絶した、きっちりした論考である。

その帯がなかなか示唆的なので、ここにご紹介しよう。
「中国史書に解明の鍵を発見!(←ここ、大文字)
孔子が書いた『春秋』の叙述伝統を継承する中国史書には、独特の記述スタイルが存在する。そのルールに従って難解な『魏志』「倭人伝」を徹底的に解読、果てしなき邪馬台国論争に大きな楔を打ち込む衝撃の提言」
とあるのだけど、その通りなのだ。

まず著者は、魏志を倭人伝だけでなく、東夷伝(その中に倭人伝が含まれる)全体でみるべきだ、と主張する。
そのうち、韓伝と倭人伝だけが、ほかの東夷伝とはおもむき(すなわち叙述スタイル)が異なる、と指摘する。
ではなぜ異なる叙述スタイルが用いられるのか、というところから、魏志の著者である陳寿と、ほかの史書の著者たちの背景を紹介する。
それすなわち、春秋学者であるということを。

そして中国の史書には伝統として『春秋』を継承する、という意識があることを指摘し、ではその『春秋』のレトリックはどんなものであるか、それが魏志倭人伝にどのように利用されているか、を詳細に検討する。
その結果として、誇張里数の実際は何であるか、それをもとに、現実の地図から邪馬台国が割り出せるかを実証する。

実証できちゃうんだな、これが。
オドロキと興奮のあまり、読み終えて頭がくらくらしました。

なぜ、誇張里数でなくちゃいけないのか、という政治的な背景も納得がいく。
そして里数は誇張しているが戸数はそのまま、という理由も納得がいく。
陸行一月水行二十日、という計算も、きっちりと実数とあうし、納得がいく。

あまりに納得がいくので、投馬国が薩摩だという説も、納得しそうだ。
(これについては、また改めて、薩摩について論じてみようと思う)

とりあえず、今後、邪馬台国について論じる人は、すべからくこの本を読みなさい、と言いたい。
これ読んできて、そこから反論してくれないと、受け付けないよ、と言いたい。
……いや、無理だろうけど(^_^;)。

なぜ無理かっていうと、著者がどうやら市井の人らしいからなのだな。
日本の学会は、こういう人たちに対して、もう全然まったく、かえりみようとしないから。
そりゃぁ、とんちんかんなはなしをしている人もいっぱいいますよ。
でも、とりあえず『春秋』読んでからやってこーい、とこれからは言ってみたい。

……自分も『春秋』読むかな。

というのも。
記紀を書いた人々というのも、当然、『春秋』を学んでいたのではないか、と思い至ったわけです。
この本に書かれているような、『春秋の筆法』というものが、記紀においても利用されている……可能性は高い。
いや、可能性が高いどころか、そうでなくっちゃいけない。
そうなると、「矛盾がある」ということは、史書としておかしいことではなく、むしろ、当然のことだというのもわかってくる。
そう、どうしてこうも記紀に矛盾がいっぱいあるのか、というのが、最大の謎だろうからね。
そして、矛盾があるから信用できない、というのがこれまでの論法だった。
だけど、書に残すにはそれなりの意味があると思うわけ。
その意味とはなんだろうと思って、ずっと頭をひねってきたのだけれど。

答えは『春秋の筆法』。

一例だけ、著書からひいてみよう。

『春秋』は、孔子が仕えていた魯国の年代記である。
詳しい説明は省くけど、とりあえず「勧善懲悪」の書だ。
そしてこの史書の書き方には、独特で、ほかにはみられないルールがある。
たとえば、魯国十一代の君主それぞれの死亡記事について。
公名と年月日は省きます。(書き写すのが面倒なのだ)

1、公が薨ぜられた
2、公が斉で薨ぜられた
3、公が路寝で薨ぜられた
4、公が薨ぜられた
5、公が小寝で薨ぜられた
6、公が台下で薨ぜられた
7、公が路寝で薨ぜられた
8、公が路寝で薨ぜられた
9、公が楚宮で薨ぜられた
10、公が乾侯で薨ぜられた
11、公が高寝で薨ぜられた

何がどう違うのか、一見すると、まるで分からない。
で、これについての謎解きはというと、この書き方には、四種類の区分けがあるのだそうだ。
そのうち、3、5、6、7、8、9、11は、公が宮殿の室内(路寝・小寝・台下は室名、廟室名だそうだ)で亡くなったということで、この形式が中国式記録の正式な慣例なのだそうだ。これはつまり、安楽死を意味する。
次に「公が薨じた」としか書いてないもの。つまり、場所が書いてないものは、「国内で暗殺」された意味になる。1と4ですね。
それから、10は、公が他国の都市で薨じたもの。これは国外亡命中に他国の町で病死したことを意味するそうな。
そして2は、他国(斉)で薨じたと書かれている。これは、都市名とは意味が違い、「他国で暗殺」されたことを語っている。
というわけだ。

きわめて簡潔な書き方、はたからみるとその違いがほとんど分からないこの書き方によって、亡命中の病死とか、陰謀暗殺とか、分かる人には分かるように書き分けてあるわけ。

どうですか。これが「春秋の筆法」だというのですよ。
きわめて複雑かつ婉曲なレトリックですな。
頭がくらくらします。

でも、それが分かると、日本書紀の、あの微妙な書き分けというのが、なんとなく、「あれ?」とか思えるようになるんですよ。
えぇ、本当に。


中国の文献を読むということ [基本姿勢]

いや~、正直いうと、漢文、そんなに得意じゃないです。
多少は読めます。つーか、日本人、いちおー学校で漢文読む練習はしている……ですよね?
その程度。
あれは英語と同じで、慣れというものもあると思います。つまり数をこなせば、なんとなく。
この「なんとなく」が曲者なんですけどね。

日本書紀、継体天皇の24年に、こんな文章があります。

「24年の春二月の丁未の朔(ついたちのひ)に、詔(みことのり)して曰く、「磐余彦の帝・水間城(みまき)の王より、皆、博物(ものし)れる臣(まへつきみ)、明哲(さか)しき佐(たすけ)に頼る。故(かれ)、道臣(みちのおみ)謀(はかりごと)を陳べて、神日本(かむやまと)以て盛なり。大彦略(はかりこと)を申べて、膽瓊殖(いにえ)用て隆(さかり)にましましき。繼體(ひつぎ)の君に及びて、中興之功(なかごろおこるいたはり)を立てむとするときには、いづれかむかしよりさかしきはかりことによらざらむ。ここに、小泊瀬天皇(おはつせのすめらみこと)の天下(あめのした)に王たるときに降りて、幸に前の聖に承けて、隆(さか)え平ぐこと日久し。俗(ひとびと)漸(ようやく)に蔽(くらく)して寤(さ)めず。政(まつりごと)浸(ようやく)にして衰へて改めず。……(以下略)」

で、この「磐余彦の帝」からあとってのは、実は、芸文類聚、治政部、論政の後漢崔寔政論にある
「自堯舜之帝、湯武之王、皆頼明哲の佐、博物の臣、故皐陶陳謀而唐虞以興、伊箕作訓而殷周以隆、及継体君、欲立中興之功者、曷嘗不頼賢哲之謀乎、凡天下之所以不治者、常疾世主、承平之日久、俗漸弊而不寤、政浸衰而不改」
によっている、と岩波の注には書いてあるんですが。

もともとこの芸文類聚の文章は、君主を諫めるためのものなんだそうです。
ところが日本書紀では、これが天皇の詔という形になっている。
そこからして、なかなかおかしいんですが、一番の問題点はここ。

「ここに小泊瀬天皇の天下に王たるときに降りて、幸に前の聖に承けて、隆え平ぐこと日久し」というここです。ここ、芸文類聚では、
「凡天下之所以不治者、常疾世主、承平之日久、」とありまして、つまり、「およそ天下がおさまらざるゆえんのところは、常に代々の君主のねたみによる」で切って、「承平の日(つまり平和な時代)が久しければ、」と続くんじゃないかと。

これについては、実は漢文の読みは、わたくし、よくわかりませんので、やや専門家な夫にいろいろときいたんですが(爆)。

つまるところ、何がいいたいのかと申しますとですね。
たぶん、継体天皇は、この詔そのままにいったんじゃないだろうと思うわけです(^_^;)。
というのも、あまりにも漢文調でしてね。このまま、やまと言葉で読んでもやっぱりそぐわない。
これは、日本書紀を編纂する時に、実際に編集に当たった人間が、芸文類聚に当たって、適当に改竄したんだろうという気がするわけですね。
まぁ、改竄ってのはですね、もとの文章の中国の人間を日本の人間に置き換えるだけでなく、小泊瀬天皇、つまり武烈をちゃっかり「天下のおさまらざるゆえんのところ」に押し込めちゃってるあたりが、ですね(^_^;)皮肉っぽいというか、やってくれるじゃないの、という感じで。
しかも君主のねたみのせいだよ~ん、というところを、さりげなく「前の聖によって」とかごまかしちゃって。
これだけ読んだら、「幸に前の聖に承けて」でもって、なんかいいことあったんだね、とか思っちゃうわけですが、芸文類聚に当たってみると、ほんとーは君主妬んでというわけなのよ。
つまり、もとの文に当たれる人には、ここの部分の皮肉が、すばらしくよくわかるように改竄してあるわけです。

なんか、こうむらむらとですね、日本書紀の執筆に当たった当時の史(ふひと)たちのことが、知りたくなってきましたよ。
きっと、「ここんとこ、ひとつ、継体天皇かっこよくするために、演説いれてね。あ、でも、武烈おとしめちゃダミよ~ん、大伴金村の功績があるからね」と言われて、「げー、そんなむずかしーことー」と悩みつつも、とりあえず、文章はでっちあげたんだな。
できあがった文章だけ見て、検閲したやつは、よっしゃよっしゃだったでしょう。(たぶん、芸文類聚見てない)
でも、あとから芸文類聚に当たったやつは、真っ青になったろーなー。
きっと上から無理難題押しつけられた史たちが、ひそかに復讐してるんじゃないか、とかね。

妄想もまた楽しいです。


記紀に書かれた世界へのアプローチ [基本姿勢]

考古学の発見が相次いでいるので、「紀元は2600年♪」という話はなかっただろうという共通認識になっていると思います。

では、実際に、記紀に書かれた神々や天皇たちの話ってのは、どのぐらいの時代に比定できるだろうか、という話です。

まず、スサノオの悪戯伝説に、稲作や馬にまつわる話がでてきているので、ざっと弥生時代以降の話だろうという予測はたちます。

縄文時代っていうのは、草創期がおよそ紀元前一万年までさかのぼれるらしいです。
各地に遺跡がありますが、案外、畿内には遺跡が少ないらしいです。
東北や関東にも満遍なくあって、もちろん九州も四国も。
縄文時代に日本列島には「中心」というものがなかったようです。
それぞれに独自の社会を築いていて、なおかつ、遠隔地との交流もあった模様。
それはたとえば、黒曜石の遺物がどこから出土していて、その産地はどこか、なんてあたりからも調べられるらしいんですが、驚くほど遠方までもたらされているんですね。
海流をうまく使った海上貿易も想定できるらしいです。

縄文時代の晩期が、紀元前1000年ぐらいからで、弥生時代というのは、大体、紀元前300年ぐらいからということらしいです。
その直前ぐらいから、支石墓と稲作が、おもに北九州から始まり、これが徐々に広がっていくようです。

さてこの支石墓は朝鮮半島でおよそ紀元前1000年あたりからあらわれていたようです。
この支石墓を持つグループは、磨製石器を使って稲作農耕をしていたようです。
ここへ紀元前600年ぐらいから、中国東北部の銅剣文化が次第に南下してくるようです。
そして徐々に押された支石墓+磨製石器+稲作のグループが、ついに海を渡って北九州にはいってくるのが紀元前400年代の終わりごろ、ということらしいんですね。

稲作が導入されると社会かどう変化するかというと、まず、その日暮らしじゃなくなります。
稲作は一年というタイムスケールを上手に管理すると、備蓄できるほどに収穫できます。
そのため、効率よく稲作をすれば、余分に人口を養えることになります。
そして稲作は一家族ではなく、村単位での組織行動が必要となるために、村意識が生れてきます。
富の蓄積は富裕階層を生み出し、余剰が贅沢を呼びます。
贅沢をするために、富の収奪を防ぐため、戦士階級が発達します。
効率的な稲作は、農業従事しなくてもよい支配者階級や戦士階級を生み出すわけです。
これが階級制度のはじまりだろうと言われています。

それまでの日本列島において、縄文文化には、さほどの身分の差はなかっただろうと言われています。もちろん、採集文化にもそれなりのグループ活動は必要であり、それなりの集落も当然のことながらあるのですが、まだまだ富を蓄積するほどには至らなかったようです。

そこへ、稲作を持った集団が、流入してくるわけです。
流入してくる理由としては、稲作によって栄養が安定して全体として人口が増えたために、それまでの土地では養いきれなくなった、というのが考えられます。
それと、気候の変動によって寒冷化した場合、より北方で生活できなくなった人間が南下するのは、世界的に見られる現象ですね。
この北方の民族というのは、朝鮮半島に限ったわけではありませんが、大体において騎馬民族なわけです。朝鮮半島の南部まで騎馬民族が押し寄せてきたかどうかは別にして、そこでは文化の交流もあったわけです。

日本列島は完全に海に囲まれているので、馬が原産でない以上、どこかから船で渡してこなければならないのです。
で、この馬が交易の対象とされていたかというと、最初はそうではなかったんじゃないかと思うんですね。だってこっちには馬がいないんだから、それが欲しいかどうかわからない。
そうすると、馬を連れていた人々が、馬を使う生活習慣ともども、グループで移住してきたと考えるほうが自然です。
当然、彼等は稲作をやるグループなわけですけどね。
こういう人たちがやってこないと、高天ヶ原神話は生れないわけです。
これが、大体、紀元前、早くて400年代の終わりごろ、大体300年ぐらいじゃないかと言われてます。

私は日本神話で「神」と呼ばれているものたちは、どんなに古くても、この弥生時代をくだらないんじゃないかと思ってます。
つまり、すべて外来。
なぜかっていうと、縄文時代における宗教というと、あの土偶ですよ。
基本は、女性、もっといってしまうと、出産と育児にかかわる女性です。
もちろん、それの源である男根崇拝もあったんじゃないかと思われる遺物が多少は残っていますが。
基本的にはとにかく、母性優先。ついでに母系中心家族だったろうと思われます。
母系ということは、つまり財産相続が、母親から娘に受け継がれるという意味ですね。

まぁ、日本では平安時代ぐらいまでは、この母系が残ってましたから、こんにちのような男系相続で古代社会を考えるというのは、そもそも出発点が違うよね、と思うわけですが。

あ、もちろん、北方からやってきた遊牧民族社会って、基本的に男系社会なんです。
そうでなくとも富の蓄積ができて、村落単位でまとまらなくちゃならなくなると、政治的な首長は圧倒的に男性になります。
その場合、宗教的な権威としての女性首長が付随するケースもけっこうあります。
つーか、日本列島の場合、けっこう長いこと、それがあったんじゃないかなぁ、とぼんやり考えています。
で、この政治的な首長と宗教的な首長が、血縁とか夫婦関係とかでセットになっているケースも十分に考えられるわけですね。

そしてこういったセットは、すでに朝鮮半島南地域でできあがっていて、そうした首長クラスがリーダーとなって、村落単位で移動してきたという可能性もあるかなぁって思っています。
だって、支石墓作るのって、一家族やそこらの人数じゃ無理っぽいですよ?
当時の交通手段は丸木舟でしょうけれど、これって馬ものっけて移動できるんですよ。
丸木舟をいくつか横につなげて、筏のように組んで安定をよくしてやれば、天気のよい日に朝鮮半島の南から、対馬、壱岐と島づたいに渡ってくるのは、さほど馬にもきつくはないでしょう。
もともと、朝鮮半島南部が対馬や壱岐、それに北九州海岸あたりと古くから交易があるのは、考古学的にも立証されているようです。
そうした地域をつなぐのは、海洋民であって、これが倭とイコールであるかどうかは別にしても、密接な関係があるのは疑う余地がありません。

そして、北九州とともに、隠岐を経由した出雲地域というのも、早くからこうした移住集団が住み着いたのではないかと思います。
そうした地域においても、宗教的な権威かどうかは別にして、女性の首長がいたらしいことは、女性が単独で埋葬された古墳がでてくることなどからも裏付けられるようです。

そうそう。日本で最初に夫婦合葬された事例はというと。
日本書紀では、欽明天皇の奥さんの一人だった、蘇我のキタシ姫という人が、欽明天皇没後40年とかに亡くなって、合葬されたという記事があります。
でも実はキタシ姫は欽明の正妻じゃなかったんですね。どうも蘇我があとからごり押ししたらしい。
明らかに夫婦合葬というと、天武と持統かなぁ。
いずれにしてもそれより前だと、夫婦といえどもお墓は別、だったんです。
逆に言いますと、それまでは、女性が単独でお墓に葬られる、それも首長クラスとして古墳に葬られるということが、けっこうあったようなのです。
これが、おもに世俗的(政治的・軍事的)権威である男性首長と、宗教的(これはつまり巫女ってことね)権威である女性首長が並び立っていたのではないかと推測する理由ですけどね。
記紀にもよく女性首長の名前が単独ででてきたり、男性名と女性名がペアで首長としてでてきたりしています。

で、何がいいたいかっていうと、要するに「おおきみ(大王)」と呼ばれる世俗的権力は、なんらかの宗教的権力とペアリングで、その補佐があって、はじめて成り立つんじゃないかという推測を述べたいわけです。
そう、「なぜその人は、おおきみとなれたのか」ってことですね。
これはこのあとも繰り返し、注目していこうと思っています。


古代朝鮮がらみ [雑感]

半分ぐらい書いて下書きのまま放ってあるものとか、どうしても増えてきたので、ときどき、雑感で息抜きすることにします。

というか、種々雑多な本をあまりいっぱい詰め込みすぎていて、頭の中で、どの説がどの本にはいっていて、どうなっていたか、わからなくなりつつあります。と、年はとりたくないぞっ。
DHAを飲んでがんばらなくっちゃ。

本日読んで大変におもしろかったのは『実証 古代朝鮮』井上秀雄著、NHKブックス。
古代朝鮮史が概観できるだけでなく、わたくし的に非常に重要だと思われる案件を発見。

それはですね、古代中国・朝鮮・日本の金石文・碑文の字体変化を、きちんと年代史的に見せてくれていて、異体字の変遷とその通過をみて、『稲荷山古墳出土鉄剣銘文』の制作年次辛亥を、通常言われている471年または531年ではなく、さらに一巡繰り下げた591年だろうと推定している部分です。この銘文に使われている「獲」の異体字(右側の旁の草かんむりがないやつ)が、東魏(534~550)と北斉(550~577)でしか使われていないということで、この文字が新羅にもたらされるまでに約30年かかっているとのこと。(これはほかの字体の変遷からもほぼ立証できる年数のようです。つまり、南朝で作られた文字が北朝に渡るのに約10年、北朝から高句麗にはいるのにさらに10年、高句麗から新羅にはいるのに、さらに10年という感じなのね)そして、東魏でこの「獲」の異体字が使われている碑文が536年のものなので、それより前にはくだらないだろうというわけです。東魏は北朝だからもしかしたら20年ぐらいで新羅にもたらされているかもしれないけれど、新羅における碑文で「獲」の異体字が扱われているのは658年のものなのですって。たとえ、新羅を経由せずに百済を通して早くに入手していたとしても、この536年碑文の文字を、日本で531年に使用するのは無理があろうということ(ましてや、471年ではね)。

あと、日本では、石に彫られた、いわゆる石碑文というものがとても少ないということ。
そして中国と朝鮮では、この石碑文の意味がかなり違うということ。
これによって、「漢字」を使う文化意識がおのおの異なるだろう、というあたり、すごく示唆的で勉強になります。

つまり、中国では、おおまかにこの時代(紀元前後から5~6世紀あたり)の碑文というのは、神道碑、顕彰碑、巡狩碑などが中心なのだけれど、古代朝鮮では、もっぱら布告文に使われているということ。(実は「高句麗広開土王碑」というのは、この広開土王の業績を布告するとともに、広開土王の守墓人(墓守)と烟戸(墓守の家族)の所属確定と売買禁止を明示しているんですね。単なる顕彰碑ではないのだそうです)
これが日本にくると、こうした形で石に文字を彫って、なんらかの顕彰をしたり、布告をしたりということは全然やってなくて、鏡とか剣といった呪具に文字を刻むという、きわめて宗教的な用い方(それはある種、原始的な使い方なのだけど)をしている、ということ。

さらにもうひとつ、すっっっごくびっくりしたのは、6世紀における古代朝鮮では、金石文の発見地のおよそ八割が王都とその周辺なのに、同じ日本では、畿内三割、地方(律令における「外国(とつくに)」)が七割を超えていること。そして、その発見地域は、九州や山陰、関東など、畿内より朝鮮三国との交渉が容易なところ(逆にいうと、畿内を経由せずに交渉しているところ)なのだということ。
畿内の大和朝廷で文字文化が急速に発展するのは、十万点以上の木簡が大量出土するようになる七世紀後半以降である、ということ。

「このように考えれば、日本での文字文化の受容が大和王朝のみによるとする通説には、抜本的な再検討が必要となろう」と筆者はいってます。この説には大変に賛同します。

う~ん、もともと稲荷山古墳からでてきた鉄剣の銘文ですが、あそこに書いてある「獲加多支鹵大王」は雄略だとは思えなかったんですね。これはなんつーか、単なる読んだ印象なんですが、特に「杖刀人首(じょうとうじんのおびと)」というのが、ものすごくひっかかる。「杖刀人」というのは、「刀による人、刀を持つ人」なのだろうと思うのですが、こういう名称が、古代日本で使われているという傍証はないわけですね。
もしかして、今後、こういう職種(だろうな)が明記されている文書がなんらかの形ででてくるかもしれないから、そうなるまでの思案にすぎないのだけれど、こういうふうに「刀をもって仕える人」という具体的な職種名というのは、どうも日本的な感覚とそぐわない。

たとえば、物部といい、伴部といい、兵力をつかさどる古くからの(と言われている)グループも「もの」とか「とも」とかいう、大変に抽象的な言葉で表されているんです。
「兵」をもって「つわもの」とか「つわものぞなえ」とか言うわけですが、こんなふうに大和言葉であらわされると、具体的な武器名は欠落してしまう。というか、具体的な武器の名前をつけた職種名を持つという感覚が、そもそもないんじゃないか、と思うわけです。
もちろん、当時の日本人が「刀(かたな)」とか「剣(つるぎ)」とか、はたまた「槍(ほこ)」とか「楯(たて)」とかをもっていた記述というのは、日本書紀でもでてくるわけですが、そういうものを持つ人という意味の職種名としては、明記されていない。それは逆に言うと、具体的な武器名を明記した職種名というものは、古代日本ではなかったんじゃないかと思えるわけです。
もっとはっきり言うと、具体的なものを指して言うような名称を使うのは、はばかられたのではないかな。

少し時代をくだって、兵衛といい、近衛といい、近侍といい、侍というあたりでも、武器を扱う人間を、具体的な武器名で呼ぶことがない、という印象があります。もしかして自分が気づいてないだけかな? そのへん、もう少しきっちりと調べ直してみよう。

そしてもしも、古代日本において、武器の名称をそのまま職種名とするような慣習がなければ、「杖刀人」というのは、日本の職種じゃないってことになるわけですな。
私の印象は高句麗なんだけど(^_^;)……これはいくらなんでも飛躍しすぎかしらん。

あらら、雑感といいつつ、書籍紹介になっちゃったかな。だったらもっときちんと紹介すればいいのかしら。


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